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カテゴリー「演劇」の13件の記事

2015年3月30日 (月)

『十二夜』を観る

数あるシェクスピア劇の中でも『十二夜』には格別の思い入れがある。
今から五十数年まえに大学の英文科の卒業公演として上演したことがあるからだ。原文を一年かけて勉強したあとの仕上げの演劇体験は英文科の恒例となっていて、早稲田の演劇科の教授たちが出張してきて指導にあたる、かなり大がかりなものだった。女子大なので、宝塚的な雰囲気も漂っていたけれど、この年は珍しく音楽が生演奏で、弦楽の演奏者三名が道化フェスタの歌を盛り上げ、印象的だったのを覚えている。
わたしはこのとき双子の男役セバスティアンを演じ、オリヴィア姫を演じた村松英子さんの相手役だった。

これまでも『十二夜』の商業公演は、あの有名な蜷川演出の歌舞伎公演を初めとして、ずいぶん見てきたけれど、今回の日生劇場の公演はとりわけ楽しんで観劇した。Photo

トニー賞受賞者ケアード氏演出は思いのほか、正統派で、舞台美術も古風で落ち着きのある美しさ、深みのあるグリーン基調の舞台転換術が効果を奏していた。
観客層がちょっと違った雰囲気に思われたのも道理、主役双子を一人二役で演じる、元宝塚のトップスター、音月桂がお目当ての人が多かったからだ。
宝塚出身だからこその両性を演じ分ける魅力がいかんなく発揮されていて、とりわけセバスティアンのときの殺陣などは、とんぼがえりまでする身の軽やかさ、かっこよさに見とれた。

わたしのときはとてもあのような軽業的なわざは不可能だったけれど、それでもフェンシングのサーベルさばきは指導されて、スパーッと抜きかまえる爽快さは覚えている。舞台が終わったあと、下級生が寄ってきて、「素敵でした、お荷物おもちします」などと言ってくれるハプニングもあった。

今回の出演者中、オリヴィア役の中嶋朋子さんは『北の国から』のときからフアンだったのだけれど、お姫さまは年齢的にちょっと無理があったように思った。彼女はむしろ、侍女マライアを演じたら、演技力も縦横に発揮でき、適役だったのではないだろうか。あの歌舞伎のときに、現在の猿之助が演じて舞台をさらったように。
この『十二夜』という芝居、いずれの役にも見せどころがあって、演じようで舞台をさらうことができる。
道化のフェステを演じた成河というひと、驚愕の演技力だった。ギターも巧み、歌も卓越しているうえに、喜怒哀楽、ふざけを自由自在にスピード感あふれて演じ分ける。
ヴァイオラのせりふに「阿呆は利口だから阿呆の真似ができるのだわ。阿呆をつとめるにはそれだけの知恵が要る」というのがあるが、まさにそれを実感させてくれた。

終幕、「毎日雨が降る」という弾き歌いの独唱で幕が閉じるのだが、この歌、わたしたちの公演のときもフェスタ役の美声の持ち主が歌った正に同じ曲、なつかしさに胸がはずんだ。

“When that was a little tiny boy,,,”で始まるこの曲、あのときのせりふ全部忘れているのに、なぜかこの歌詞だけはおぼえているのを不思議だと思いながら、つい口ずさみつつ、帰途についた。

2015年1月15日 (木)

2015浅草歌舞伎

K子さん
昨年末のおとりこみで、いらっしゃれなくなった浅草歌舞伎のチケット、ご厚意頂戴し、昨日、昼の部、無事出かけてまいりました。
浅草は新年のにぎわいも華やぎも、おさまってはおりましたが、やはりかなりの人出で、家を一時間半前に出ましたのに、人をかきわけかきわけ浅草公会堂に着いたのは開演二十分前、ちょっとビビリました。
お席は三階のド真ん中、前から三番目、オペラグラス持参でしたので、若手スターの大写しを楽しみ、三つの演目、十分に楽しみました。
チラシの七人衆、渡辺保氏は7レンジャーとおっしゃっていますが、ほんと、当代きっての人気者、ブログも生の語りも見事にこなす人たち、ルックスもそろっていて、スゴイです。005

巳之助、松也、米吉、児太郎、隼人、種之助、歌昇。
巳之助は三津五郎の息子、児太郎は福助の息子、くらいまではたどれるのですが、あとはだれがだれやら・・・今回昼の部メインの演目『一条大蔵卿・・』主役を演じた歌昇は又五郎の息子というのが調べてわかりました。二代目又五郎は名脇役で顔もすぐ浮かぶのですが、三代目となるともうわかりません。わたしは十歳のころから歌舞伎を観ていて、もう六十年にもなるわけですが、一応一通り観たところで、イタリアに出かけることが多くなり、十二年のあいだは歌舞伎から遠ざかり気味だったので、その頃台頭してきた若手やその世襲関係がはっきりしないのです。
今回はそれを知り、たどるまたとないチャンスとなりました。
演目『娘七種』『一条大蔵卿』『独楽売』初めて観るものばかり、新春らしい美しい色彩の舞台に目が和みました。002

常磐御前の米吉、可憐な美貌で、とても三人の子持ちに見えない、大蔵卿の歌昇は貫録不足、と、それは若さゆえ、いたしかたなく、肝心なのは、演技と、口跡。せりふの発声、言いまわし、さすが申し分なく、次代を担うひとたちの頼もしい存在を実感しました。
とりわけ巳之助の独楽売りの舞踊は見もので、渡辺保氏も絶賛していましたが、三津五郎ゆずりの涼しい目元、流れるようにしなやかな身のこなし、姿も芸も、ただただ、見とれました。
三十分の二度の幕間、お弁当や土産物、プログラムなど客席まで売りにきてくれるサービス、高齢者への配慮が感じられました。

終演、二時過ぎ、二年ぶりの浅草、地理感覚が怪しくなっており、日の出のオセンベイ買うのに大回りしてしまいましたが、お箸や、まな板まで手に入れ、『三定』でエビとキスの揚げ物買って、両手いっぱいの買い物をし、インフルエンザ治癒後初めての外出にしてはおかげさまで、結構元気に帰途につきました。
ありがとうございました。

感謝のご報告まで

2014年9月11日 (木)

期待はずれだった『火のようにさみしい姉がいて』

大竹しのぶ、宮沢りえの二大女優が競演、しかも脇にごひいき、平岳大、満島真之介が出演、そして何よりも蜷川演出と知っては期待しないほうがおかしい。この日を楽しみに、場所は嫌いな渋谷だったけれどシアター、コクーンは初めてという興味も手伝い、いそいそ出かけたのに、裏切られた。001

ストーリーがわかりにくいのである。
演劇人生に行き詰った、オセロ役者の段田安則と宮沢りえの夫婦が夫の故郷を訪れ、元生家らしき理髪店にたどりつき、そこでくりひろげられる、世にも奇妙な物語である。
わたしはだいたい、段田安則という俳優が好みでない。演技力はあるのは認めるけれども、このひとが主演で、のっぺり顔がいつも中央でわめいているのを見続けるのは耐え難い。平岳大がこの役を演じてくれればよかったのに、などと思えてきたりする。
薬売りだったという老婆が大勢出てくる。蜷川氏の高齢者劇場の団員達なのだろう。「薄汚いババアどもは死ね」などという聞き捨てならないセリフを言われても、嬉々としてラインダンスまで踊ったりする。
二十二か月の胎児がおなかにいるという宮沢りえのおなかはペッタンコである。どこまでが現実で、どこまでが幻想なのかが定かでない。
理髪店の鏡が劇場の楽屋の鏡と二重写しになる舞台美術は効果的である。それなのに、主役三人が力めば力むほど、せりふが空転する。ストーリーの説得力が薄いから、せりふの迫力が空回りなのだ。
勝手に演劇芸術ぶってればいいじゃん、と言いたくなりながら、帰り道のことを考えていた。
蜷川さんの天才的な演出術は認めるけれども、観客を思いやる気持ちがうすくなって、細部に目が届きにくくなっているのではないか。たしかわたしと変わらない高齢、自分の今を思うと、まだ現役バリバリでいなければならないのひとの苦労もおのずとわかってくる。

幕間のロビーも、いい出しものを観ているという熱気や興奮は感じられなかったし、退けたあとも、難解だった、感動がなかった、という声が聞こえたりしていた。

演劇は臨場感を楽しむものなのに、ひとりよがりの力んだ二時間余につきあわされたやり場のない不快感を持て余しながらの帰り道は、とりわけ長く感じられた。

2014年8月15日 (金)

バースデイ・プレゼント

孫息子二十一歳の誕生祝も兼ねて、歌舞伎に誘った。
八月納涼歌舞伎は三部制、一番面白そうな、第二部の『輝虎配膳』と『たぬき』を選んだのだが、正解だった。渡辺保氏の批評でも、「抜群に面白い、芝居好きにはたまらぬ二時間四十五分、」とある。
この批評文をプリントアウトし、チケットと一緒に渡す。

ちゃんとしたかっこうしてきてね、と電話で話したとき、どんな?と訊くので、少なくともぞうりと半ズボンはやめてよ、と念をおしておいたのだが、現れた彼、紺のT シャツ、七分丈のパンツ、靴はなぜかオレンジ色のスニーカー、昼の部なので、女性は着物姿が多いが、男性はラフな格好多く、外人はそれこそ、ゾウリのひともいたので、ま、いいか。
わたしより頭一つひょろっと高く、いちいち見上げて話をするのが妙な感じ。そういえば二人ででかけるのは十年ぶりかもしれない。
前から十番目のど真ん中、間際に買ったのに、よくこんないい席、売れずに残っていたものだ。
歌舞伎の典型的な型の多い近松作品だが、孫は息をひそめて見入っていた。戦国の猛将の貫録と猛々しさをこの上なく見事に表現した橋乃助、成長したなあと感動である。そして渡辺氏も絶賛した、萬次郎の越路、朗々とよく響く声、老女役がこれほど際立った舞台もめずらしい。
大佛次郎の『たぬき』は、新歌舞伎だからわかりやすく、テンポも速く、ユーモアたっぷり、孫も声を立てて笑っていた。勘九郎の太鼓持ち蝶作、亡き勘三郎そっくりのしぐさやせりふまわしが随所に見られて、胸がいっぱいになった。七之助も見応え十分の娘役、歌舞伎は立派に受け継がれている。若い人にもっと見てもらわなければ。

孫は意外にも近松もののほうに感動したのだそうで、黒子の役割とか花道が小舞台になるところにつきせぬ興味を呼び覚まされたようだ。

食事は和物がいいというので、『竹葉亭』でうなぎを食べる。
いつのまにか、たばこを吸うようになっていて、喫煙席で二時間を過ごす。
週三回六時間ずつ、スーパーでのアルバイトも七年になる貧乏学生。
歌舞伎と銀座の食事、彼にとっては贅沢三昧の初体験、わたしが死んだあとも忘れないでおぼえていてほしいと願った。

2014年7月22日 (火)

七月大歌舞伎夜の部を観る

新装成った歌舞伎座に遅ればせながらでかけた。一年以上も空いてしまったのは、出し物がどれも観てしまったものばかりで、これぞという演目がなかったからだ。
この七月興業の夜の部、玉三郎、海老蔵、中車の最高の顔ぶれ、『悪太郎』『修善寺物語』『天守物語』未だ観ていない演目が初めてずらりと並んだので、やはり新歌舞伎座初体験というN 子さんをさそって二か月前、どの日もほとんど満員でようやく一日だけ一階ド真ん中のS席二枚があいていたのを確保。
出し物、役者極め付きのときは、客足がすこぶる早いことにあらためて驚いた。

古くなった歌舞伎座をこわすことを知った時、とても哀しく思ったのだけれど、元の劇場のイメージそのままの実に立派な新築完成で感動した。日本人はこんなことができるのだ、と。
上を見上げるとビルがそびえていて、ちょっと異様な感じではあるが、内部は素晴らしい。
座席のスペースがゆったりしていて、足元にお弁当やら、何やら余分な荷物をおいても、ひとが十分通れるゆとりがある。天井もアクリル板なのか白い部分が多く、明るい。舞台も広くなったようにさえ、感じる。

舞台美術の美しいこと。修善寺物語の伊豆山中の景色、渓谷の幽玄さ、そして天守物語の天守閣の別世界に繰り広げられるドラマがこの新歌舞伎座にふさわしい芸術性あふれる堂々たる歌舞伎ならではの美を堪能させてくれた。

歌舞伎に横入りした中車、どれほどの演技を見せてくれるかと楽しみにしていたのだが、修善寺物語の夜叉王、演技はともかく、せりふのエロキューション、発声法、が歌舞伎的でなく、テレビドラマや映画的なのが、妙に目立って気になる。映像ではこんなものかと思っていたのに、声の質が聞き苦しいしゃがれ声。やはり何十年歌舞伎の世界で鍛錬してきたひとたちに追いつかぬ何かがあるような気がして、同じ思いのN子さんと顔を見合わせてしまった。

天守物語の玉三郎の美しさに見とれた。このまえ見た舞台は数年まえだったが、むしろ若くなったとさえ思われる。長いせりふが多いのに、エロキューションが完璧なので、聞き惚れてしまう。
驚いたのは海老蔵、このひとのせりふまわしは喉にこもったようで聞き苦しかったのに、図書乃助の若々しく、明瞭で凛々しい発声に、美しい容姿が一段と引き立ち、すごみさえ感じた。あの謹慎のときを無駄には過ごさなかったのだ。

歌舞伎はやっぱりいい。但し、現代演劇の早いテンポに慣れてしまったせいか、あまりにもゆるやかな流れに、しばしば眠気をもよおすのをこらえねばならなかった。でも、足が丈夫なうちは、また通いたいという欲が出ている。

2014年7月17日 (木)

『抜目のない未亡人』を観る

当代きっての演技派、「大竹しのぶ」の舞台を一度見たいと思いながら見逃していた。
三谷幸喜の作品に彼女が主役で出演というこの組み合わせ、今回こそ見逃すものかとばかりにとびついたら、同じ思いのひとが多いらしく、どの日もいい席は売り切れ。
かろうじて二階の前から三番目という席のある日、ま、いいかとゲット。002

新国立の中劇場、二階は三列しかないから、前から三番目は一番後ろでもある。
でも舞台は一階前列九番目までとりはらっての、広い舞台、ヴェネチアのホテルの海が見える中庭という想定、ゆったりした解放感で、二階席があまり苦にならなかった。

イタリアの喜劇作家、カルロ・ゴルドーニの原作、想定を全くの現代に変え、台詞の95パーセントが三谷翻案だそうで、あいかわらずの快調テンポである。
高齢富豪に嫁ぎ、夫を看取って未亡人となった、元女優、銀幕復帰とあわよくば恋もしたいと一石二鳥の欲望ぎらぎらの主人公、英、仏、伊、スペインの監督と相対して目的を果たそうとする。狂言回しが、八嶋智人、なんだかシェクスピアの喜劇を連想させられる雰囲気でもあった。

なんと休憩なしの一時間五十分、早口せりふの応酬、八面六臂の大竹さんに目が釘付け。
ジコチュウでちょっとでも自分のプライドが傷つくとむきになる、よくある女優タイプをこれ以上ないくらい好演。すごい人だ。時にしおらしく、時に怒り、そねみ、じらし、かけひきする、すさまじい感情変化すべてを、全身で表現し、観る者を圧倒する。これはもう演技というより神技に近い。メリル・ストリーブ、杉村春子に共通するなにか・・・
帰宅してネットの批評の数々を観たら、このあまりにも変化の多い演技を、荒れている、野田秀樹の演劇に出ていた悪い癖、べらんめえ口調が抜けていない、などという辛口の文章を発見。完璧さを求めるとどこまで欲深くなるものかと、思った。
三十一日まで続く、驚異的にセリフの多い、しかも歌ったり、踊ったりのこの芝居、大竹さん、くれぐれご自愛を、と言いたい。

わたし、九月の蜷川演出、あなた主演のコクーン演劇、チケット買ってしまったので・・・

2014年4月22日 (火)

『シズコさん』と洋子さん

Sさんからお誘いのお電話があった。「あなた佐野洋子お好きだったわよね。『シズコさん』っていう民藝のお芝居ご一緒にいかが?招待券があるの」
喜んでお供することにした。
『シズコさん』は佐野さんの晩年の作品で、おかあさんのこと、家族の内輪話がかなりどろどろした内容で書かれていて、ちょっと辟易した覚えがある。あれを演劇にすると、どういうことになるのだろう。佐野さんのことより、おかあさんの人生に焦点があたるドラマになってしまうのだろうか。

ところが軽快なポップスの音楽で幕があくと、骨折したおかあさんをだれが面倒みるかということでユーモアあふれる会話がぽんぽんとびかう好調なすべりだし、目がはなせなくなった。
樫山文枝さん扮する佐野洋子は似合ってはいるのだが、実物よりおしとやか、実物の佐野さんは「ナントカじゃん?」などの言葉を連発するもう少し伝法なところがある人だったはず、でもそれはそれで、演技が素晴らしいから見ていてそれほどの違和感はない。
さて肝心のシズコさん、おかあさん役、なんだか普通のひとなのである。本に描かれているのはいつもお化粧ばかりしている派手な感じのひと、という印象だったのだが、それが感じられない,地味なのだ。そのせいか主役のはずなのに影が薄い。
休憩のとき、Sさんもそれを指摘した。富士真奈美みたいなひとに思えたのにね、そう、そう、まさにあのひとなら適役だろうに。

それにしても民藝の観客の高齢化に驚く。杖をついたひとばかり。わたしの隣席の白髪男性、始まった途端、すやすやと眠りこけ、いびきこそかかなかったが、その寝息が邪魔で、思わず、肘鉄砲したいのをなんとかこらえる。

佐野さんの二度目の結婚、離婚、長男溺愛のやりとり、佐野作品のほとんどを読んだというこの脚本家、さすがにこまかいところまで目くばりよく、ドラマ性がきわだつ。それだけに、シズコさんというよりは「洋子さん」像があざやかすぎて、これはもう佐野さんの晩年を描き切ったドラマになりきり、「シズコさん」像がしぼんだ感はあったが、わたしにはうすれがちになっていた佐野フアン当時の記憶を小気味よくよみがえらせてくれる、うれしい演劇鑑賞となった。


2013年12月 8日 (日)

『ロスト・イン・ヨンカーズ』を観て

アメリカの劇作家、ニール・サイモンの最高傑作と称される『ロスト・イン・ヨンカーズ』を横浜、日本大通りにあるKAAT神奈川芸術劇場で観た。吹き抜けのモダンなビル、その五階のホール、黒のインテリアに、座席がショッキングピンクという色彩だけは好みでなく、おまけに二階席、S席のチケットなのに、現実の場所はバルコニーなる名称の二階の上、三階で、だまされたような気分、空席もちらほら目立ったので、よほど開演後、闇に乗じて席をうつりたいとまで思ったが、じっと我慢。

でもいざ幕が上がると、その鬱積した気分が払拭されるほどの、役になりきった俳優陣の名演と、三谷演出の翻訳劇を全く感じさせぬほどの、せりふの快テンポ、ドラマの筋立ての面白さにのめりこんで、演劇だからこそ、味わえる臨場感の醍醐味を味わった。001


第二次大戦時ニューヨークの街ヨンカーズに住むユダヤ系アメリカ人家庭にくりひろげられる物語、笑顔を見せたことのない頑固で厳しい母親に育てられた四人の子供たちはみなトラウマをかかえている。発達障害的な娘2人、ギャングの世界に足をふみいれている息子の一人、そこに妻を亡くし、借金をかかえたもう一人の息子が訪れ、出稼ぎに行くために二人のティーンの男の子たちを預かってほしいと母親を説得するところからドラマが始まる。
二人の孫たちが家庭崩壊寸前の家の救世主となるかどうかがこの物語のカギになるのだが、母親はいなくても愛情に包まれて育った男の子たちは思ったことをはっきり言葉に出すことができ、孤立化していた家族たちとのコミュニケーションを復活させていく、そのプロセスで、私自身の家のことまで思いを馳せることとなった。

よい演劇とはそういう効果を生むものだ。草笛光子演じるこの老婦人の孤立感に感情移入してしまうのである。

我が家に同居している中年の息子は短い受け答えをするだけで、ほとんどコミュニケーションがない。娘も電話するときを選ばなければならない。疲れて寝ているからだ。メールにも返事なし、携帯も出ないということが多い。でも面倒も起こさず、仕事に忙しくしていられるのだから、感謝しなければと思おうとしてはいるのだけれど。

こういう状況でいざとなっても子供たちに頼る、すがるということはまずむずかしいだろう。最後のときまで、自分たちがしっかりしていなければならない。健康のことも、精神のよりどころも。自分の体調をよく知り、無理をせず、いつも笑顔でいられるような心のゆとりを持たなければ、と、わかってはいるが、師走もおしせまるにつれて、人生の冬もきびしく、深くなってくるのを、観終った道すがら、実感した。


2013年1月18日 (金)

新春浅草歌舞伎

そもそもは久しぶりに浅草に行きたくて、その浅草の面白さをおしえてくれた、K子さんに、ついでに歌舞伎もいかが、とさそってみたのだが、うれしいことに、数日前なのに、ぴたりと都合が折り合った。

歌舞伎友達だったK子さん、歴史に基づいた歌舞伎をしっかり知識にたくわえている、生き字引的なひと、一緒に、ほとんどの演目を見続けたあと、身体の事情、家の事情などから、数年ご無沙汰していたのだが、さあ、それでは、ということで、新春浅草歌舞伎へ。

席は前から六番目の端っこだったが、真ん中より、人の頭が気にならなくて、かえって見やすいのよ、と通の彼女が言う。

お年玉〈年始ご挨拶〉に単独で出てきた片岡孝太郎に驚く。最初は定番の「皆々様には…」に始まって、すぐ、がらりと変わって、素でやるトーク、これがよどみなく見事で聞きほれる。自分の命名の話、女形は見得をきることがない、ということから、左団次おじさんにおそわったという、「このタビ、白タビにてそうろう」みたいな見得を見せてくれたり、一階から三階まで拍手の違いを把握させたり、笑いもふんだんに取って、ああ、なんと立派に成長していることか、きょうはこれだけでも来た甲斐ありといった感じ。

彼、演技も素晴らしかった。幡随長兵衛の女房お時、出てくるだけで、町奴の頭領のおかみの貫禄十分、しかも声がよく通る。海老蔵はあんなによい声質なのに、せりふがくぐもってこもり、よく聞き取れない。二人のかけ合いのとき余計目立つ。惜しいな、と思う。
一番心に残ったシーンは女房お時が手伝って、長兵衛がかみしもに着替えるところ、無言なのに、海老蔵の姿のよさ、手さばきの美しさと、女房の手伝いかたの息の合い方、溜息の出る美しい場面だった。

二演目はちょうどよい長さ。疲れず、そのまま買い物、食べものばかり、甘栗、甘納豆、楽しみにしていた日の出のおせんべいが休業でがっかり。
最後は地下鉄付近の『三定』でかきあげ、夕食用に買って、銀座線で帰る。

帰宅してからの楽しみは渡辺保氏の歌舞伎劇評のサイトを見ること。

2012年12月 5日 (水)

中村勘三郎さんの訃報

歌舞伎の天才役者の早世、残念でならない。難聴から始まった大病とか、あまりにも才能がありすぎて、多忙になり、過労が元となったのではないだろうか。
生きながらえたならば、必ず文化勲章受賞し、人間国宝になったひとであろうに。

勘九郎ちゃんと言われていたデビューの頃から、見守ってきた。青年になってからはモテモテで、どれほど美人女優と噂があったか知れない。
それなのに、身を固めねばというほどの年齢になったとき、そちらのほうはぴたりと終結し、歌舞伎の名門中の名門、先代の中村福助丈の令嬢と結婚。この女性から生まれる赤ちゃんはさぞかし眉目秀麗の歌舞伎顔と想像できる純日本美人。その選択、その身の納めようが、スゴイと当時思った。
あまり大柄ではないのに、華がある。舞台に出ただけで、その場をさらってしまう、芸、表情、姿、ああ、なんと惜しいひとを失くしたことか。
午後のワイドショーを二時間見続けながら、思った。