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カテゴリー「音楽」の45件の記事

2017年3月 5日 (日)

オーディション

孫娘のオーディションを観に来ないか、という娘からの誘いの電話をもらった。
金管楽器のファイナリストのオーディションで、46人中5人の中に選ばれたのだという。
その中からたった一人が、オケと共演できて8万円の出演料をもらえるのだ、とか。
5人のうち、女性は孫娘だけで、あとは全部男性。
場所は川崎ミューザ。
トランペット、ユーフォニアム、テューバ、そしてトロンボーン二人、孫娘は最後の出番で、しかももう一人のトロンボーン奏者は彼女より2年下の芸大生である。
彼女は芸大入試に失敗、授業料全額無料といって招かれた私立の音大に通っている。
しかも、しかも、二人同じ曲を吹かされるのだ、こりゃ、もうダメ、さぞ、プレッシャーだろうと同情した。

休憩まえにトロンボーン以外が演奏、ユーフォニアムとテューバは大学院卒の、超大柄な男性、出る音も迫力だった。
娘が言った。このうちのどっちか、もう決まったようなものよ、と。

トロンボーンの芸大生もすごい太め、だから音はかなりの迫力だったけれど、このトマジの曲は、曲想がつかみにくい、楽しくもなんともないメロディ、このあとは大変だろう、と、ますます不安。

孫娘はぴったりした黒のパンツに、襟のあいた黒シャツという、すっきりした出で立ちで、大男ばっかりのあとだったので、すごく可憐に見えた。
こんな女の子に金管がふけるのか、と思われそう、でも始まりの音は澄んでいて美しかった。落ち着いて吹き切ったと思う。なにより、楽しくもなんともないメロディを、聴かせる魅力がそこにあった。
終ってから、「よかったよ、というタイトル、あなたの演奏には確かな音楽があった!!」とメールを送った。

そのあと一緒に食事をする約束だったので、エスカレーターを降りると、孫娘は同級生数人に囲まれていて泣き顔だった。「思うようにできてない、悔しい」と言ってまた涙ぐむ。
娘が言った。「泣くのは、まだ上昇志向が残ってる証拠、大丈夫」

もう、わたしの出番を必要としない、親子関係を見たという気がした。

2017年2月21日 (火)

オペレッタ『天国と地獄』を観る

オッフェンバックという作曲家が好きである。歌劇『ホフマン物語』を何度観たことか。

でも彼はオペレッタを作り出したひとである。今から160年まえのパリで、2百回以上上演されたという、その傑作『天国と地獄』をかねてから観たいと思っていた。

東京オペレッタ劇場が内幸町ホールでそれを上演することがわかって、チケットを早くから買い求めた。オペラとは格段に異なる安価な4000円、自由席、一体どういう舞台になるのだろう。音楽は?舞台美術は?衣装は?Photo


200席にも満たない多目的ホール、その日は満員だった。高齢者が多い。
音楽はピアノとヴァイオリンのみ、舞台美術はかなり斬新、最後の地獄の場面は片目をつむった真実の口が大きくかかげられていて、あっと驚く趣向。

ギリシャ悲劇『オルフェオとエウリディーチェ』をパロディー化したせりふの多い現代調。
芸達者な歌手たちである。脚本も意表をついていて、トランプや小池百合子まで登場させる思い切りのよさ。十分に笑わせてくれたあとで、登場人物の実力十分の歌唱のすごさに圧倒される、そのギャップが楽しい。

当時のフィガロ紙が「ともかくあかぬけている、気が利いている、聴衆を魅了してやまない、心地よく響くメロディ、楽しい」と大絶賛した言葉はそのまま、今日まで生きている仕上がりとなっていた。

オーケストラなどなくても、決して邪魔をせず、しかも見事なアンサンブルのピアノとヴァイオリンのデュオが、また素晴らしい。
こういう工夫に満ちた、親しみやすい舞台こそがオペレッタの身上。
あのあまりにも有名なフレンチカンカンのメロディのほかのも聞き惚れるアリアや二重唱、三重唱などがひっきりなしで、本当に満足した。

昔の浅草オペラというのはこういう作品の連続だったのではあるまいか。
肩の凝らないオペレッタこそ、今の日本が必要としているものなのかも。
八月公演の『ボッカチオ』が見逃せない。

2016年11月19日 (土)

サントリーホールで『ラインの黄金』を観る

数か月ぶりにサントリーホールに出かけた。
きょうの演目はワーグナーのホールオペラ『ラインの黄金』

六本木一丁目で降りて、サントリーホールへの矢印を進んでいたら、ガラス張りのビルの中に誘導されて、あわてた。サントリーホールに行くのだけれど、と二度ぐらい人を呼び止めて確かめ、進みながら、びっくりしていた。両側に食事どころや、青果店や、肉のかたまりをぶらさげた精肉店まであって、すごい変貌ぶりなのである。
六時半開演とあって、ひとりで外食をするのが億劫になり、家で済ましてきたのだが、こんなに、軽く入れそうな店があるのなら、とちょっと後悔していた。
商品の値段をみると、煎茶のティーバッグ入りの袋が千円以上していたり、けっこう、どれも高値である。だが以前より便利になったのは確かだ。

席は二階の前から十番目ぐらい、入りは七分ぐらいで、空いている前の席に移動したくなったが、だれもそんなことをしていないので、ぐっとこらえた。
きょうの主役はオーケストラ、新時代のカリスマ指揮者として名高いクリスチャン・ティーレマン、休憩なし、座りながら、およそ3時間余のぶっとおしの指揮。
後部の高いところに、歌舞伎の襖絵つきみたいな舞台ができていて、雪を頂く山山が描かれている。左わきは水を暗示するのか、ブルー、右は茶系の壁がある。その上方かなり高いところに字幕が出るのだけれど、わたしの席からはその字幕がしっかり読み取れない。視力が落ちているせいなのか、オペラグラス持参だったので、グラスをひざに下すことが少ないぐらい、ちょっと疲れる観劇だった。

オケの音は申し分なかったが、登場人物の衣装が超現代的、神々の王ヴォータンは黒のスーツに白いマフラー、あとの巨人族やニーベルン族もTシャツみたいなラフな出で立ちで、声はそろっていていいのだけれど、ちょっと、という感じ。

でもさすがワーグナー、クレッシェンドが迫力、人間の心理描写にぴったりの音で効果を出す。そして怒涛のような高鳴りの和音にまきこまれる高揚感、これがたまらなくて、わたしはまだ、これからもワーグナーを見続けると思う。

外に出たら、彩も美しいクリスマスツリーに目を奪われた。
1年が経つのは早いとつくづく思いながらシャッターを切った。Photo

2016年8月15日 (月)

メトライブ『フィガロの結婚』を観る

若い友人のK子さんと、モーツアルトのオペラに、なぜか感動したことがない、ということに大きく共感したばかりだったのだが、それでもきのう、メトライブの『フィガロの結婚』を観に出かけた。
このところの身体の不調で家に閉じこもりぎみだったので、なにか、あの脳天気に明るいメロディ満載のモーツアルトを大画面でガンガン聴きたくなってきたからだ。

あまり期待していなかったのに、これは大当たりであった。
演出が時代考証を、第二次世界大戦時におきかえた・・・つまり『ダウントン・アビー』のころの現代調になったせいで、物語が現実味を帯びてわかりやすくなり、しかも演出家と指揮者レヴァインの意気がぴったり合い、演技に重点がおかれたせいで、ゲラゲラ笑ってしまうようなユーモアも生きて、その上容姿よし、声よしの歌手勢揃いの迫力に圧倒されたからである。
何よりもケルビーノが美しかった。宝塚の男役も真っ青の美男ぶりである。Photo

大体宝塚の洋物は欧米人の顔立ちに近いスターが選ばれるわけだから、ましてや、本物の欧米人のきりっとした顔立ちの女性が男装すれば、まぎれもなさが増すわけで、本舞台のイザベル・レナードのハンサムぶりには息をのむばかり、あのアリア「ヴォイ・ケ・サペーテ・・」の美しさに酔いしれた。

舞台も回り舞台で、フィガロの部屋、伯爵夫人の部屋、まわりながら変化する楽しさの効果大であった。
けれども、三分の二ほどまでのテンポがあまりによすぎたので、スザンナと伯爵夫人が衣装を交換して男たちを翻弄する場面はちょっとだれ気味、このあたりがモーツアルトに疲れてしまう限界かな、と思ったりはした。

秋にウイーン国立歌劇場が『フィガロ・・』を引っ提げてやってくるが、数万円だすことに比べれば、このメトライブ3100円の『フィガロ…』必見の価値あり、だとわたしは思う。

東劇、9/1、2、 14:00. 9/21 19:00(まだ観るチャンスありです)

2016年6月30日 (木)

弾く喜びを取り戻す

小さいときから讃美歌が大好きだった。

歌いなれている好みの曲がいくつかあるのに、所属教会の礼拝で、歌われることはめったにない。選ばれているのは音程がとりにくく、歌っていても楽しくない曲ばかりである。
不満がつのって、選曲にリクエストはできないのか、と古参の男性信者のひとに訊いてみた。
あなたはどれほど、讃美歌というものを知っているのか、と、こちらが鼻白むような返事が返ってきて、わたしは沈黙した。
あとで、そのひとが牧師からそういうことを言うものではないと、注意を受けたと言ってあやまってきたのだが、わたしはそのとき、今こそ讃美歌をもっと知らなければならない、と切実に思った。

でも家を小さくするときに、ピアノを手放してしまったので、弾きたくても弾けない。
娘のピアノを弾かせてもらえばいい、とも思ったのだが、なかなか出かけて行くチャンスがない。
銀座の山野楽器に行って気が付いた。そうだ、キーボード楽器を買えばいいのだ、と。
そのことを娘に話したら、使ってないのが、あるから、あげる、という思いがけない返事をもらった。

そして届けられたキーボード、このところ、毎日にように弾いている。
初歩的な演奏方法のみ、娘から伝授されたので、とりあえず、VOICEに含まれるキーボード13項目をためす。
ピアノを初めとして、ハープシコードやパイプオルガン、アコーディオンの音まで出せるのだが、いろいろ試した結果、意外にも讃美歌に一番ぴったりの音はEオルガンだった。
ネットで調べたら、Eオルガンとは、ハモンドオルガンと称するもので、空気感に富む明朗な音色、を出すと言われている。
和音がきまったときの快感が何とも言えない。
讃美歌、367と500番を交互に弾いてみる。一番好きなのは“うるわしの白百合”だが、お葬式によく歌われると聞いてからは、なんとなく進んで弾く気がおきない。

取扱い説明書がついていないので、取り寄せようとヤマハに電話したら、ウェブでマニュアル・ライブラリーを検索すれば、全部わかります、とのこと。
便利になったものだ。

2016年6月 1日 (水)

メトライブ『ロベルト・デヴェリュー』を観る

『ロベルト・デヴェリュー』、ドニゼッテイのオペラとしては聞き慣れないタイトルである。
お目当てはノッティンガム公爵を演じるマリウス・クヴィエチェンだったのだが、思いがけない発見があった。
タイトルロールの、エリザベス一世の寵臣ロベルト・デヴェリューはむしろ脇役、主役はなんといっても、エリザベス一世、役名エリザベッタであったこと、そして、歌手ソンドラ・ラドヴァノスキーの,鬼気迫る名演と絶唱である。Photo

七十代の高齢にさしかかっている身体の危うさ、寵臣の反逆と、自分に対する愛の喪失におびえる心、それを秘めつつ、女王としての威厳を保とうとする努力、そういう感情を余すところなく、動作の細部にいたるまで表しつつ、素晴らしいコロラチューラを響かせる。

このひとは一体どういう経歴なのだろう? ~スキーと言う名から、ロシア人を想像したが、なんとシカゴ出身のアメリカ人、イタリア留学などをしておらず、ずっとアメリカでメトロポリタンオペラのコンクールで優勝したのみの栄誉、不遇時代を経験しているらしい。42歳、結婚していてカナダ住まいとか・・・
日本のウイキペディアには載っておらず、アメリカ版グーグルで調べた。

インタビューで、まだまだ歌うわ、と述べていたが、もっと彼女の舞台が観たい。楽しみがふえた。

クヴィエチェンは相変わらずのバリトン特有の敵役、無難にこなしてはいたが、ともかく、残り三人のメインロールは、エリザベッタの引き立て役に終わっていたように思う。Photo_2

Photo_3

ドニゼッティの音楽はやはり美しい。悲劇であっても、耳にやさしく癒されるものがある。

ともかく豪華な舞台、舞台装置もしっかりその時代をあらわし、衣装がまたスゴい。
最後に鬘をかなぐり捨てたエリザベッタ、室内着なのかネグリジェなのか、そのスモック刺繍一面のワンピースまで凝ったもので、見とれた。

メトはこういうものにお金を惜しまず、イタリーなど倹約一辺倒なのに、比べて、一番お金をかけているのではなかろうか。それだけに、歌手の寄せ集め、などと言う人がいるけれど、わたしは最近のメトに見応えを感じる。


2016年5月30日 (月)

新国立劇場『ローエングリン』を観る

オペラは沢山観ているけれど、ワーグナーの楽劇は長い、むずかしい、疲れそうと決め込んで、敬遠していた。
昨年、メトロポリタンライブで『タンホイザー』は馴染みのメロデイ―が沢山あるから、わかりやすいかも、と期待し、ワグナーオペラを初めて観て、これまでの自分の偏見を恥じたのであった。

ワーグナーは劇作家としてもすぐれた才能の持ち主であるゆえにこその、構成の巧みさ、合唱の組み込みの的確さ、なによりも楽劇と称せられるだけのことはある、見事なストーリー運びの迫力に圧倒されるのである。

これはナマを観てみなければ、と決意し、『ローエングリン』のチケットを購入した。
延々五時間の超大作である。あいだに二度の40分の幕間。
少々はりこんで前から9列目の平土間席だったが、高齢のせいかそこでも顔の輪郭がぼやける。オペラグラス持参がのぞましかったと後悔。
三幕の、どの場面もドラマ性に満ちているので、眠気をもよおすことなどまったくない。

何よりも、タイトルロールのクラウス・フロリアン・フォークトの歌唱の素晴らしさに酔いしれた。Photo


こんなテノールの声は初めてである。耳に吸い込まれるようにやさしい、しかも透明で、音程もこれ以上ないくらい確かな、それでいて、聞かせどころの張り上げる声は迫力に満ちている。白鳥の騎士役にこれほどの適役テノールはいない、と欧米で評価が高いのもうなずける。二枚目テノールのカウフマンをも、はるかにしのぐ魅力では、と感じた。

無実の罪に陥れられたエルザ姫が夢で見た騎士の出現、白鳥に導かれた騎士をどのように登場させるのか、花道もない舞台、息をつめて見守るうちに、騎士は上から宙乗りで登場、これも劇的でよかった。Photo_2


舞台は抽象的なつくりではあるが、美しく、衣装や色調も現代風の粋が感じられ、エルザ姫の重なりの多いショートスカーのドレスも可憐さ、はかなさが強調されていて見事。Photo_3


幕間の40分、ブルスケッダつきシャンパン、カプレーゼやバーニャカウダ、一皿パスタ、それにディナーメニューなど、ドルチェコーナーも充実していた。私はこんなこととは知らず、終演後のレストラン予約をしていたのだが、しまった、と思ってもあとのまつり。
ローエングリンサンドイッチなるひと箱ケースものもあり、長時間オペラの食は劇場内ですべて用が足りるのだと、今頃悟ったのだった。


2016年2月14日 (日)

クヴィエチェンにクビったけ

男性の声はテノールよりバリトンが好みだ。
容姿もよく、演技力も抜群と、三拍子そろったポーランド出身の名バリトン、マリウシュ・クヴィエチェンを、一昨年のメトライブビューイング『オネーギン』で知って以来、魅せられ、去年のアンコール公演で再度観る。Photo


顔だちは美男というのとは違う、どちらかというとドンファン的な危うさをかもしだす容貌でもあるが、演技をともなって変貌する表情がとてつもない魅力を発揮することが多く、それをもっと、もっと見たいという思いにさせるのである。Photo_2


彼のことを教えてくれた友が、日本でのナマの舞台『ドン・ジョヴァンニ』を立て続けに、二度観たという気持ちがいまなら痛いほどわかる。

というわけで、左膝はまだ危なっかしいけれど、今年クヴィエチェンが出ているメトライブの『真珠採り』を見逃すわけにはいかない、どうしても観たい、東劇に行きたいのは山山だけれど、いまの足の状態ではちょっと遠い、さて一番近く、それは二十分で行ける川崎のシネコン、と探索して、イソイソ、といきたいが、足の加減はオズオズ、出かけた。

ビゼーのオペラ作曲家としての出世作と称せられる『真珠採り』、十年先の『カルメン』の奔放さ、激しさとは全く異なる美しく、清廉でおだやかな楽曲に満ちている。Photo_3

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未開時代のセイロン島の村、真珠採りの頭領ズルガに扮するのがクヴィエチェン、真珠採りの安全を願うために遣わされた尼僧にディアナ・ダムラウ、ズルガの親友ナディールにマシュー・ボレンザーニという配役。尼僧は純潔と信仰の誓いをたてさせられるが、実はズルガとナディールが昔,愛をあらそった女性レイラであった。レイラはナディールを愛しており、禁断の恋が発覚、ズルガは二人に死刑の宣告をするが、友情と、嫉妬と、頭領としての責任の板挟に苦しむ。Photo_5


クヴィエチェンは卓越した演技力で、その苦悩をあらわす歌唱がすばらしく、フィナーレで一人ずつ出てくるときの拍手はテノールを抜きんでていたと思ったのは、ひいきのし過ぎだろうか。

深海を飛泳する真珠採りの模様を、映像技術と宙乗りとで、表現する特殊舞台美術が臨場感に富み、見応えがあった。途中嵐の来襲で津波のような波のうねりがくり返し押し寄せる映像はちょっと恐ろしかったけれど、迫力があった。


男性群の衣装がいささか現代調すぎるかな、という印象はあったのだけれど、ネットで2010年のチューリッヒの舞台を見たら、味気ないくらい現代そのもので、舞台芸術ではメトのほうがはるかにすぐれていると思われたし、休憩時インタビューでは歌手ばかりでなく、舞台美術の担当者にも種証しさせるので、一段と興味をそそられた。

クヴィエチェンの英語はなめらか、ユーモアに満ちた明るさもあり、母国ポーランドに向けて挨拶をするのも忘れず好感度が増した。

2015年9月21日 (月)

フェニーチェ劇場『ラ・トラヴィアータ』2015

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フェニーチェ劇場は美しかった。三度の火災にもめげずその名のとおり不死鳥のように復活した姿、オペラ発祥の地である、ヴェネチアの意地にかけて築いたと思われるほどに、贅をつくした優美な劇場。088_2

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そこで、初演されたという記念すべき『ラ・トラヴィアータ』を観るという感激はその日の舞台で湧き上がることはなかった。

カナダ出身のロバート・カーセンの演出がかなり意表をついたものだということは聞いていたが、『ラ・トラヴィアータ』堕落した女の、意を強調し、「椿姫」を徹底して娼婦のイメージに解釈している舞台に、わたしは好感を持てなった。

黒い下着のしどけない姿でベッドに横たわるヴィオレッタに男たちが次々に札束を与えるシーンから始まる第一幕001_2


アルフレードはパパラッチのごとくに、デジカメをかまえて彼女の写真をとりまくっている。

ヴィオレッタの郊外の屋敷という設定の第二幕は森の風景のようなカーテンの下、敷き詰められているのは朽ちた落ち葉のように見える、これも紙幣の山である。004


デュマ・フィスの原作の椿姫は貴族や富裕な男をパトロンにして暮らしている女性ではあるが、誇り高く生きていることが強調されていた。だから、ヴェルディの格調高いメロディが冴えわたり、悲劇性が高まっていたのが過去の舞台だったと思う。

ヴィオレッタ役のソプラノ、フランチェスカ・ドット、トレヴィーゾ出身の彼女は細身のきれいな容姿の持ち主で無難にこなしてはいたが、声の響きがいまひとつ、テノールのフランチェスコ・デムーロはのびやかな声量とイタリア語の発音の確かさで、それなりに迫力はあったのだが、容姿のスマートさに欠け、衣装もそぐわなかった。

フィナーレで一番拍手が多かったバリトンの、ギリシャ出身ディミトリ・プラタニアス、わたしにはその昔のシェリル・ミルンズの完璧ジェルモンがあまりにも印象深かったので、今回の太り過ぎの容姿に違和感をおぼえた。

しかしヴェルディのメロディは美しい。二幕目のバリトンのアリアはソプラノやテノールの影をうすくするくらいの独壇場、終わってからも耳の奥で鳴りやむことがないほどなのである。

2015年5月21日 (木)

バッティストーニのトゥーランドット

眼力のひと、もう一人、アンドレア・バッティストーニ。Photo

オーケストラの音を見事に変貌させられるイタリア至宝とも称せられる若手指揮者。
五月十八日、サントリーホール、演奏会形式、オペラ『トゥーランドット』を観る。

オペラを観に行って思うのは、どんなに高名な指揮者を迎えても、劇場によっては穴倉のような舞台下にオケが入ってしまうこと。

今回は違った。オケが主役、正面の舞台いっぱいを占領、その上に東京少年少女合唱隊、更にその上、新国立劇場合唱団、そしてさらにパイプオルガンのある最上階にもドラがすえられていて、登場人物数人も現れる仕組み。
ひな壇状の構造から一挙に発せられる音の集合マジックに魅せられる。

プッチーニのこの演目、実はすすんで見たいというものではなく、東洋趣味のイタリアオペラはむしろ敬遠しがちだったのだが、東洋的な音が混じるからこそ、三幕以降のあのアリア「誰も寝てはならぬ」が冴えわたるのだ。これまでの愚かな思い込みを恥じた。

バッティストーニは身体全体で音を出させている。ときどき、何かを叫んでいるように口が開く、身体がしなる。
「私たちの国と文化を代表する傑作を魂を込めて演奏したいと思います」とインタビューで語っていたが、まさにその指揮ぶりには魂がこもっていた。東フィルがこれほどの音を、出せるとは、とうなりたくなったほどだ

衣装や舞台装置が省略されている分、音楽そのものに集中でき、単純明快にストーリーが理解できる。歌手たちにもその意識があるのか、歌声には力がこもり、熱唱が際立った。

オペラは招ぶのも大変だし、チケットも高価だが、こういう演奏会形式なら、出かけやすい。もっとこういう公演をふやしてほしいと、こころから思った。

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