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カテゴリー「書籍・雑誌」の34件の記事

2017年2月10日 (金)

老いながらP.D.ジェイムズ

P.D.ジェイムズの三冊目、『皮膚の下の頭蓋骨』を一月半ばから読み始めているのに、さっぱり読み進まない。改行が極端に少なく、しかも一行一行を読みとばせないほど、風景描写も心理描写も深みのある叙述なので、味わっていると時間がかかるのである。
図書館に頼んで、二週間延期してもらった。

高齢で不治の病に侵されている、劇評家のモノローグに感情移入してしまう。「老年特有のいくつかの欠点をさらけ出しはじめた・・・ちょっとした心遣いを好むようになった・・定まった手順を守るのに大騒ぎをする・・・一番の旧友とすら会うのに気乗りがせず・・着替えや入浴まで重荷と感じるほどの不精・・・そして肉体的機能のことばかりが最大の関心事・・」
膝の痛みが一大事だった昨年はうなずけることが多かった。

オリンピックが2020年、田園調布中央病院が多摩川に完成するのも、雪ヶ谷の東急ストアが建て直るのもやはり2020年、そのころ、今のように元気でいられるかどうか・・
あと三年先は夫の今の歳に近い。生活者としてまだなんでもこなす今の彼は立派だと思う。

きょう二か月ぶりにプールで泳いだ。バタ足の力が弱くなっていて、クロールもバックも浮き方が弱い。でも今のわたしの身体を一番ととのえてくれるのは、やはり水泳だと思う。
泳いだ後のすがすがしさは大切な感覚。

帰宅してジェイムズの続きを読む。ようやく半分、いまかいまかと恐れていた、すさまじい惨劇が起こる。
俄然読み進みやすくなってきた。

読書ができる目の力と根気があることを感謝して、またこの一年を過ごさなければ・・・

2017年1月21日 (土)

ひとり温泉特集

図書館で、ほらね、やっぱり、と言いたくなる雑誌の特集記事を見つけた。
『CREAクレア』2月号の楽しいひとり温泉。
さすが文芸春秋社、およそ百ページに及ぶ美しい写真入りの情報は永久保存的貴重さである。

先日もブログ読者の同級生から、あなた、よくひとりで温泉なんて行くわねえ、とほめられているのか、あきれられているのか、という感想をもらった。
でもこの特集記事に、「旅を通して日々の生活をきちんと見直す・・自分の身体と向き合いととのえるにはやはりひとりがふさわしい・・」この言葉がまさしくわたしがこうしたいから、という気持ちをあらわしてくれていて、大きくうなずきたくなったのだった。

いまからおよそ二十年以上まえ、まだ日本語教師と翻訳業の二束のわらじの仕事をしているとき、わたしはすでにひとり温泉をしていた。当時一番気に入っていたのは、穂高にある『穂高養生園』、疲れたOLのための宿とうたわれていたが、これ以上ないくらいの正統派の玄米自然食で、一度たべたらやめられないくらい、おいしさに夢中になった。二、三度続けて通ったのだが、厨房のかなめ役のひとがやめてから、味が変わり、それでもこの味にこだわり、かなめ役の男性が山梨に玄米食を学べる宿を作ったというのを聞いて、わざわざ訪ねて行ったほどだった。

CREAの特集記事は一万円以下のこじんまりとした宿から、数万円もする贅沢なオーベルジュなるものまで実にさまざま、ここまで進化したのかと感無量である。
 
ひとり温泉はいまやトレンド、すでに数軒の行きたい宿が見つかった。
新刊なので、この雑誌、貸出できず、アマゾンで取り寄せたのである。

八十になってもまだまだ楽しみは尽きそうにないのがうれしい。

2016年12月13日 (火)

P.D.ジェイムズを読む

読み始めたらやめられない、傑作長編ミステリーをかかえている幸福感はなんとも言えないものだ。晩年に足やら腰やらの痛みをかかえていても、いっとき、読書の世界に没入できる楽しみがあれば、小さな悩みは忘れていられる。
P・D・.ジェイムズの本が面白いということを伝えきいて何度が読もうと挑戦したのだが、これまでそれが果たせずにいた。
と、いうのもせっかちなわたし、最初にハートをわしづかみにされないと、前に進んでいかないという、性格がわざわいしていたのだと思う。

実母がちょうとわたしの今の年頃に、P・D・ジェイムズは面白いねえ、と電話をかけてきたのを、思い出し、読書時間が沢山とれそうになった、この二週間、ついに、もう一度挑戦してみようと、まずは英国推理作家協会賞を受賞した『死の味』上下二冊を、図書館から借りてきた。

導入部およそ10ページはやはり長く、ちょっと退屈、上下巻読み終わったいまは、その導入部が重要なのだということがわかるのだが、漢字が多く、翻訳文も古びている。65歳の独身女性を、ウォートン嬢というのが気になる。いまならミス・ウォートンだろう。
訳文につっかかり、登場人物の名前を覚えるのに苦労しつつ進む数十ページ、政界でも活躍した準男爵が浮浪者と共に、教会で惨殺された導入部から、詩人でもあるダルグリッシュ主任警部はじめ、階級制度がくずれつつあるイギリスの赤裸々な様相を明らかにする、登場人物を目配りよく配置させる具体的な描写に、次第に目をうばわれるようになってきた。

ジェイムズ女史は人生を語るのが巧みだ。女性警部とその祖母との関係、死体の目撃者、ミス・ウォートンの孤独な生活、アパートで物音にうるさい階下の家主に気兼ねをして、しびんをつかって排泄し、それをわからぬように、昼間始末するところなど、ミステリーの興味だけではない、重厚な本格小説を読んでいるような筆致に魅せられてくる。
自然の描写も美しい。「ロンドンの東・・・青みがかった深紅に染まっている。深々としたブルー・ブラックの夜に水彩絵の具の筆を注意深く一振りしたような空だった」など。

音楽にも詳しい。病理学専門医が精神浄化のために聴く、テレマンのヴィオラ協奏曲ト長調、それがどうしても聴きたくなってyoutubeを検索、なるほどとうなずく。

犯人は下巻の中途で明らかになるが、それからが目を離せぬ面白さである。いかにしてつかまるか、複雑な人間関係がどう解き明かされるのか、その興味で、ページに目が釘付けとなる。

それぞれの登場人物の人生模様、心理描写がしっかりと描かれているので、読後の満足感は非常に大きいものとなった。

2016年9月 6日 (火)

『暮らしの手帖』異聞

『ととねえちゃん』を毎日観ている。タイトルのイラスト画が素晴らしい。
とりわけ茶色いネコが階段をかけのぼっていく姿に在りし日のチャイの姿が重なる。

脚本もなかなかよくできていて、次々展開するエピソードもテンポよく、面白さも工夫されていて飽きさせない。

先日、緑ヶ丘プールに泳ぎに行ったら、学童使用が終らないとかで、一時間待たされることになってしまったので、近くの図書館で時間をつぶすことにした。
あいうえお順によくそろえて展示された雑誌の部屋があるので、そこで、『暮らしの手帖』でも読んでいようかと、「く」のところを探したのだが、見当たらない。
係りの人の話では、全部貸出し中で、最新号は貸出できないのだけれど、それもない、ということはだれかが読書中なのだろう、とのこと。
その人気に驚いた。

暮らし、ということに本当に興味が出てきたのは結婚してからだが、『暮らしの手帖』にはあまり興味がなかった。花嫁修業で、和、洋、中華の料理はしっかり習得していたし、暮らしの知恵がほしいとは思わなかった。『暮らしの手帖』が「こころざし」を持った、珍しく立派な雑誌だということはわかっていたけれど、センスのよいファッションや美しいインテリア、旅の情報満載の『ミセス』や『家庭画報』のほうに目が向いていたのである。
自分がそのレベルの暮らしに手が届かないことはわかっていても、より高度なものを見ていたいという、あこがれがあった。

『暮らしの手帖』が、商品試験なるものをして、非常にくわしい情報を提供してくれるのも知っていたが、丁度その電化製品を買うとき、と、その情報が載っているときが一致することは、なかなかなく、そこまでの探究心もなかった。
料理の写真もレシピが知りたいと思ったことはあまりなかった。プロの料理人がつくるものが多く、わたしはどちらかというと主婦出身の料理研究家のレシピに目が向いていたのである。
「すてきなあなたに」という大橋さんのエッセイは魅力があった。のちによりぬきのものを集めた一冊を購入したおぼえがある。

さて、その日、久しぶりに『ミセス』を手にして驚いた。魅力あるファッションはまったくなく、精彩に乏しい。モデルも美しいひとが少ない。

『暮らしの手帖』の亜流のような『天然生活』、『ソトコト』、『ku・ne l』など、出ているがマガジンハウス出版のものが多く、『暮らしの手帖』の現編集長もマガジンハウス出身のひとのようだ。

朝ドラの影響がいつまで続くのか、スローライフ調の雑誌が売れ続けるものなのか、行方を眺める興味は尽きない。


2016年6月10日 (金)

ジュリアン・バーンズ作『終わりの感覚』を読む

一冊の本を読み終えたあとで、すぐまた、直ちに読みかえしたくなるという本はあまりあるものではないが、私はこの本にはそれをしないではいられなかった。

ブッカー賞を受賞した英国を代表する作家ジュリアン・バーンズの『終わりの感覚』

語り手の学生生活を語る数十ページは退屈しそうになった。授業での教師とのやりとりや、やがて大学に入ってからのガールフレンドとの付き合い、性的な欲望を持て余すエピソード、しかし読み終わってその部分がのちの事件のカギとなっているのに気づかされる。
語り手であり、この物語の主人公であるトニーが親しくなった秀才のエイドリアンがどれほど秀でていたかの叙述が多いのも、のちの事件の伏線となっている。彼が皆の期待どおりケンブリッジ大学に入学、トニーはブリストル大学の史学科で学ぶことになるのだが、しばらくは二人の友情は続く。
ところがトニーが付き合っていた女学生ベロニカとの仲がこわれ、しばらくして、エイドリアンがベロニカと付き合うことになったことを知らせる手紙を受け取ったとき、トニーは平静ではいられなくなって、高ぶった憤懣をそのまま文字にした感情的な手紙を書きおくってしまう。

大学を卒業して、アメリカの旅を終え、帰国したトニーを待ち受けていたのはエイドリアンの自殺の一報だった。その事件の全貌を確かめぬままに、時間は過ぎて、トニーが六十代半ばにさしかかったときから、物語は大きく展開しはじめる。

ガールフレンドを失った腹いせに鬱憤をぶちまけた手紙のもたらしたもの・・・結末に向かいながら衝撃の真実があらわにされるまで、活字から目をはなすことができなくなる。

時間に翻弄される人間の記憶というもの、作者の忘れがたい記述「年齢が進むにつれ・・記憶は重なり合い、行きつ戻りつし、虚偽記憶が充満してくる・・・老人の記憶は断片の集まりや継ぎはぎになる」人間は自分に都合の悪いことは忘れようとしてしまうのだろう。

エイドリアンに送った最後の手紙は彼の人生最初で最後の恋愛をぶち壊そうとした。「いずれわかる」などとしたり顔で書いたトニーは、時の力を過小評価していた・・・いずれわかるのは、二人のことではなく、トニー自身のことだった・・・
「私たちは自分の人生を頻繁に語る。語るたび、あそこを手直しし、ここを飾り、そこをこっそり端折る・・」

これまで生きていると、ふと立ち止まって思い当ることがいくつも出てくるものだ、深み十分の記述である。

78歳まで生きてきたいまの自分の人格を考えるとき、ちっとも向上していないじゃないか、と自己嫌悪におちいるときがある。作者はこう述べている。「実人生で・・・人は時間とともに態度や意見を変え、新しい癖や奇行を身につける・・・こういうものはいわば飾りで、人格とはちょっと違う・・・完成の時期は二十歳から三十歳のあいだか?そこで人格が出来上がり、以後はその人格で一生を過ごす」
そうなのだろうか、自分が思う自分と他人に見える自分との違いの意識が明確にされるこの物語。

人生の晩年に思いがけぬ友情を得て、この本を紹介され、考えさせられること、まことに多く、感動をおぼえた。
K子さん、ありがとうございました。

2016年5月 9日 (月)

続、伊丹十三のエッセイに夢中

前述の『女たちよ!』の冒頭、著者はこれまで人から教わってきた役に立つことを、包丁の持ち方から、珍しいカクテルの作り方まで、教えてくれたひとの実名を入れて書き並べている。
そして、更に「女に対しては、力強く、かつ素早く。これを私はすべての女友達から学んだ」とまで。
「と、いうわけで私は役に立つことをいろいろと知っている。そうしてその役に立つことを普及もしている。が、しかしこれらはすべてひとに教わったことばかりだ。 私自身は・・ほとんど全く無内容な、空っぽの容れものにすぎない」と述べているが、その容れものに、いれるものを、どのように選択し、見極め、自分のものにするかが、そのひとの人間のありようを左右する。

伊丹さんのエッセイにはその具体例が、これ以上ないというほどの的確な言葉を選び、エピソードや会話表現で、語られている。スゴイひとだとつくづく思った。

『再び女たちよ!』はその表紙カバーから、挿絵まで、前作の線描きのイラストと打って変わって、濃密なデッサン画、その技術力の見事さに魅入られずにはいられない。

中でもとりわけ印象深かったのが、『キザ』と題する一文、書き出しのアントン・ウォルブリュックという名に、あっつと思った。戦後初めてカラーの外国映画『赤い靴』を観た母が、どれほどこの俳優にのぼせあがったかを覚えていたからだ。Photo

伊丹さんは、この俳優を見るために、『赤い靴』を九回観たと語っている。そして、ウォルブリュックは見事にキザな男であった、とも。「・・右手から左手にステッキを持ちかえたとみるまに、返す右手でボーイが捧げ持つ盆の上からひょいとシャンペン・グラスをとる、その流れるようなリズム、しかも、これらのすべてを、よくよく注意しなければそれとわからぬくらい、彼はさりげなくやってのけるのである・・・」

キザとはどう表現されるかを、種々のエピソードを交えて語ったあとで、最後に伊丹さん自身が奥さんと共に実践したキザのデッサンが描かれている。ルイ・ヴィトンの鞄をばらして銀座であつらえた、下駄の爪皮の絵。Photo_2


私は今、これらのデッサンの実物を見ることができる、愛媛県松山の「伊丹十三記念館」に行きたくてうずうずしている。

2016年5月 6日 (金)

伊丹十三のエッセイに夢中

せっかく覚えたイタリア語をなんとか保持するために、毎日欠かさず、ラジオのイタリア語講座を聴いている。
四月から、木、金の上級コースが翻訳工房になった。
その教材が、なんと伊丹十三のエッセイ、スパゲッティの正しい食べ方、なのである。
昔、彼のエッセイを初めて読んだとき、その知識の豊富さ、文章のユニークさに驚嘆したのだったが、その後映画監督としてあまりに有名になり、そしてあの痛ましい逝去までの過程で、そのことが脳裏からうすれてしまっていた。
だが翻訳工房で、一語一語、語感をとらえ、文章の流れをたどっていくと、あらためて、構成といい、語り口といい、素晴らしい書き手だったことが歴然とし、イタリア人講師も、感嘆しているのを聞きながら、ぜひ、もう一度読みたいという気持ちに駆られた。

夫が図書館に行くというので、一緒につきそってまずは三冊借りてくる。
『女たちよ!』『再び女たちよ!』、そして『ヨーロッパ退屈日記』

スパゲッティの正しい食べ方の出ている『ヨーロッパ退屈日記』は最後に読むことにして、まずは『女たち…』から読み始めた。そして、あらためて感嘆し、これほど読者の心をとらえ、楽しませるエッセイの書き手はいないのではないか、と思われるほど、魅せられてしまった。

このひとは180センチの長身、ちょっと憂いを含んだ端正な容貌、しかも、美食家で料理の腕も一流、デザイナーとしても凄腕、日本語の漢字の選択にもその博識力から、半端ではないこだわりを持ち、その上、語学の才能もあり、アラビアのロレンスを演じたピーター・オトゥールの友人でもある。だから英語発音の表記も完璧、池澤夏樹氏は彼こそがヨーロッパを基点としたホンモノを伝授した、と称しているが大きくうなずける。しかも全篇にただよう、上質のユーモア、その語り口はときに、断言し、ときに独白し、ときに問いかけ、読者をまったく飽きさせない。

私が大笑いしてしまったのは、『蚊』についての語り。
「しかしほんとにいやな性能を持って生まれてきやがったね、蚊というものは。
 要するに、刺すのは血がほしいからで、いやがらせのためじゃないんだろう?だった
 ら、それならそれで、もっとへりくだった気持ちになれないものかね。たとえば刺され
 たあと、なんで人間が痒い思いをしなけりゃならんのかね・・・・
 どうにも我慢がならんのはあの音であります。そもそも、自分の居場所を人間に知られ
 だけ損だし、第一危険ではないか。なにを考えているのかね、蚊というのは。やること
 が支離滅裂である」

続いてなぜか、見苦しい、聞き苦しいことについて、
「バス・ガイドの車内放送では、文章のあたまにあたまに、なにかこう、小さな装飾音符みたいなものをいれるのがつうとされているらしい。
ゥ右に見えますのは、ゥ富士山でございます。ゥ標高、ゥ三千、ゥ七百、ゥ七十六メートル・・・・」
こういうことを、いかにも「世なれた」という感じでやられると、見ているほうは、ほんとうに身も世もなく恥ずかしい・・・

カバー装画もイラストも彼のもの、目玉焼きで黄身だけ最後に残して食べる図もすごみがあり、滑稽なのである。
Photo


2016年1月22日 (金)

読み始めたら、やめられないヘニング・マンケル本 3.

『目くらましの道』『殺人者の顔』を読破し、いまは『ファイアーウォール』上巻を読み終わったところだが、きょう一日で300ページを夢中になって読み進ませてしまう、マニングの筆の冴えには、驚くばかりである。

『殺人者の顔』では農家の老夫婦惨殺の事件が発端であるが、飼っている馬がその日、何者かによってエサが与えられていたことが、重要なカギとなることを、直感した刑事ヴァランダーは、馬のことを知るために、かつて親友でいまは競走馬の飼育をしている友を訪ねる。

ヴァランダーの趣味はオペラのアリアを聴くことで、車の中でもCDを流しながら運転している。
この友がかつてオペラ歌手をめざしていたとき、ヴァランダーはマネージャーとなって働こうと志したのだが、夢やぶれ、二人の友情は終わった。
久しぶりに会って二人が言葉を交わす場面はこの作品の圧巻ともいえる。昔の友情を懐かしみ、期待をこめて問いかける彼に応える友は以前の面影はなく、すさんでいる。
二人が会わずにいた時間でなにが変貌したのか、時間のもたらす、とりかえしのつかないむなしい失望感がふたりの会話のはしばしに、あふれ、わたしの人生での似たような経験を思い出しながら、深く感情移入させられた。

ヴァランダーシリーズはWOWOWですでに放映されていて、英国のケネス・プラマーが自ら製作、主演しているようだが、ちょっとイメージとは違うような気がした。『フレンチアルプスで起きたこと』のヨハネス・バー・クンケー・トマスのほうが似合っているのではないか、この役はやはりスゥエーデン人に演じてほしかったのに、と思った。

でもわたしは幸い読むのが先になっている。
まだ当分左膝をかばいながら、遠距離外出を避け、予定をつくることを極力避けている身としては、これほど夢中に読みふけられる小説とめぐりあえたことで、むしろ、ラッキー!!と思ってしまうほどなのである。(了)

2016年1月19日 (火)

読み始めたら、やめられないヘニング・マンケル本 2.

スウェーデンというと、まずセンスあふれるカラフルな家具や雑貨の街、首都ストックホルムが浮かび、名匠イングール・ベルイマンの映画の画面が去来する。ベルイマンの映画はなにか暗い影のようなものが漂ったりするけれど、色彩はあふれていた。

ところがマンケルの小説の舞台は南部の過疎地、イースタ近辺、冬は凍るように寒く、色彩がまったく浮かびあがることもない、モノクロームの世界である。十月から三月ぐらいまで、ほとんど太陽が出ない日々が続くそうで、それが暮らす人たちの心にどれほどの影響を与えるか、風景描写がすぐれていればいるほど、深々と迫ってくる。
『目くらましの道』の中に、「スウェーデンはひどい貧乏のなかから立ち上がった国だった。大部分は自力で、また幸運な状況も手伝って豊かな国になったのだ・・・・そして輝かしい時代が過ぎ去ったようにみえるいま、社会福祉があらゆる方面から削られ、押し潰されそうになっている時代・・・・隠れていたほうの貧困、家族の悲惨さが表面に出てきた・・・」
というモノローグがあるが、IKEAのインテリアから想像もしなかった、この国の現状がくっきりと、まざまざとマンケルの筆であらわにされる。

かつてイタリア、ボローニャに二週間滞在したとき、ホームステイしたアパートの四階は未亡人の女性一人の居室のほかに四室、客用の部屋があって、わたし以外にスウェーデン人の学生が、三人もステイしていた。彼等は常にはしゃいでいるわりには、あまりフレンドリーな態度ではなく、好感を持てなかったのだが、スウェーデンみたいないい国(そのときはそう思っていたのだ)に住んでいて、どうしてイタリアに来ているの?と訊いたら、きゅうに表情を厳しくして応えたのには驚いた。「あんな国なんて、帰りたくもない」
もしかしたら、彼らは南部や北部の過疎地の出身だったのかも知れない、と今になって思い当たる。

ヴァラァンダーの父親は画家である。彼の生涯の夢はイタリアに行くことで、それを息子はなんとかしてかなえようと努力する。

太陽の国、イタリア、明るい輝くような陽射しの中で花々は歓喜の色で咲き誇り、トリたちは毎朝、歌うように啼く。その国で、たとえ限りある時間であっても、太陽をあびることで、幸福感を味わえるのではないかと、夢見る気持ちが切々とつたわってくるのである。


2016年1月17日 (日)

読み始めたら、やめられないヘニング・マンケル本 1.

一カ月に一度文学のことを語りあう友がいる。
女子大の付属小学校でわずか一年だけ一緒に学んだ間柄だが、彼女はその後転校してしまい、会うことはなかった。

同窓会で数十年ぶりに再会したのに、ふと話題に出たロザムンド・ピルチャーのことで意気投合し、もっともっと話し合って、会わないでいた数十年の溝を徐々に埋めていこう、ということになった。彼女は英文学を大学で教える仕事を長くしていたので、専門家としての文学を読み取る力に長け、わたしは純文学ではないが、いわゆる英米小説の翻訳を十年以上していたから、文章の行間からにじみ出る作家の感情をとらえることが得意であることを、彼女は評価してくれて、二人のあいだになにかぴったり一致する共通意識のようなものを感じ合う快感を、お互い大切に思うようになり、もっと早く会いたかったけど、まだ間に合ったわね、などと話し合っているのである。
ちかごろ北欧のミステリーが卓越している、とおしえてくれたのは、その彼女なのだ。

わたしはすでに、『ミレニアム』や『スウェーデン国家警察特捜班』などを映像で見ていて、目が離せないほど、ストーリー展開の素晴らしさに見入ってしまっている経験があったので、見るのが先か読むのが先か、ということになるともう見てしまっているけど、という感じがあったのだが、唯一映像をまだ見ていない、ヘニング・マンケルの『目くらましの道』を読んでみることにした。

そして、読みだしたら、やめられないほど面白いミステリーを、この数年間探していたのだが、ついに出会えたという実感が持てた。

導入部から読者の心をわしずかみにする力がある。余計な文章がまったくなく、短いけれども、これ以上ない的確な表現、登場人物のいずれにも、人生がくっきりと浮かぶ描写にすぐれ、解説者の言葉を借りれば、「警察捜査小説として迫力、意外性に満ちた伏線の張り方、社会情勢をひとつの犯罪によって切り取ったプロットの冴え」が結集された珠玉の作品なのである。

主人公の刑事クルト・ヴァランダーの人間像に惹かれる。ふたたび解説者の言葉を借りれば「人は人として生きている限り、いつでも未完成な存在である。だからこそ、真摯に生きようと思えば、応えのない問いをくり返し、おのれの内面に向き合わなければならない」犯人を捜しながら、無力さにもだえ、健康問題、家族問題、人間関係にふりまわされながらも、闘うことをやめない、誠実さ、粘り強さ、直観力の鋭さに、感情移入させられてしまう。

物語の中にどっぷりつからせてくれる、翻訳の見事さを語らずにはいられない。柳沢由美子というひとは、ストックホルムでスウェーデン語科を修了しているだけあって、読み進むうちにもまったく違和感のない、達意のこなれた文章力を発揮している。