『なぜ、生きているのかと考えてみるのが今かもしれない』を読む 1.
身体不調の数日間、テレビよりは読書を優先した。とりわけ読みふけったのは、辻仁成著のこの長いタイトルの本、よく長電話を楽しむ、同い年の友人から教えられてアマゾン経由で買い求めた一冊。
わたしが一番知りたかったのは、コロナ禍の海外の日本人生活者の暮らしだったのだが、それがとても丁寧に書かれていて、最初の20ページは息もつかせぬ迫力だった。まだマスク不足にあえいでいた日本の描写で始まるから一年以上の時間のズレはあるのだけれど、この六十代の作家の文章はとても心地よく頭に吸い込むのに、それでいて、人がどう生きるかを真剣なまなざしで問うているのがひしひしと伝わってくるので、すぐさま心をわしずかみにされた。
まず豚まんを手作りするパリの暮らし、そう、五十年前イリノイ州エヴァンストンに私たち家族が住み始めたときも、ビスケットミックスという粉が、豚まんの皮にピッタリの代物で、日本で食べた肉まんより、数段上品で、味のよい出来上がりを狂喜した覚えがある。
あの何とも言えない食につながる喜びを、男性、とりわけこの人のように、いつも言葉を模索しているひとは、子供とこれほどの会話の喜びを分かつことができるのだな、と感じ入ってしまった。
彼の愛息のママはかの有名女優さんだが、そのことには一切ふれていない。12歳の少年と二人で暮らすようになった日々の記述で満ちている日記ブログ風の読み物、「寒い日の朝に、子供を起こし、着替えさせて、朝ご飯を食べさせ、学校まで送る…自分は志半ばだけれど、これまで好き勝手に生きてきたのだから、せめてこの子をしっかりと育てて世の中に送りださなきゃ、となぜか思うようになった」とある。「ある日、研いでいる米や、たたんでいる洗濯ものや、…スーパーの列に並んでいる時に、思うことがあった。これが生きるということじゃないのか、と」私もよく思う、生きるということを、このコロナ禍で外出を制限されているときに、日常の暮らしのはしばしに、しみじみと思う。(続く)
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