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カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の253件の記事

2017年11月 6日 (月)

まだ咲いてる

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不運な天候にたたられ続けるユウガオだが、この日は開花したのが日暮れてからだったせいか、翌朝までしぼまずに、高貴な姿を見せてくれていた。
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つるはどんどん伸びて、とうとうシュートを越えてぶらぶらしているので、考えた末、夫の二階の部屋のバルコニーの手すりに麻ひもを結びつけて下にたらし、それをシュートにからめてつなげたら、ま、いいか、というようにまたからんで伸び続けている。

2017年11月 3日 (金)

『ばぁばの出番』

孫たちが独立を果たしたこの機会に、二人が幼かったころのことを思い出しておきたいと思いました。
十年まえ、まだわたくしが『婦人文芸』という同人誌に所属していたときに書いたもの、少し長いのですが、ここに載せることにいたします。

            
                            ばぁばの出番   
 
  命の教え  
       
 初孫は八月十五日の終戦記念日に誕生した。両親が音楽関係の仕事をしていたので、〈平和を奏でる〉ことを願い、奏平と名付けられた。
 暑い日の出産だった。微弱陣痛が一昼夜も続き、ついには陣痛促進剤が使われたので、娘の苦痛の叫びは尋常ではなく、産声を聞いたときの安堵はこの上ないものであった。
 ところが、生後三日目異変が知らされた。新生児黄疸の熱が下がらないのだという。大学病院に運ばなくてはならなくなり、産婦は安静にしていなければならないので、救急車には私が付き添うことになった。 
 看護婦に抱かれた奏平は泣き声もたてず、こけし人形のように穏やかな顔をしていた。助かるのだろうか? 新生児を外に連れ出して大丈夫なのだろうか? 私は神に祈った。「私の命を縮めてでも、どうかこの子を生きながらえさせてください」
 産婦はほどなく退院はしたが、産後の疲れをやすめるひまもなく、あふれでてくる母乳を搾って、病院に届ける配達人にさせられた。三時間おきに、三十分かけて搾り、冷凍し、一日分をアイスボックスに入れ、毎日車で十五分ほどの病院へ運ぶ。それが、一週間続いた。
 夜中に目をさまして、娘の部屋をのぞくと、肩を丸めた彼女が懸命に搾乳器で母乳を搾っている。代わろうにも代わってやれないもどかしさと憐憫のため息をおしころし、ベッドに戻るのだった。
 長い七日間が過ぎ、待ちに待った退院のとき、と喜んだのも束の間、奏平は再び発熱し、一週間の入院延長を言いわたされてしまった。落胆に疲労が加わり、吸う主のない乳房はかたく腫れあがって化膿し、乳腺炎を起こしていた。医者は化膿止めと抗生物質のクスリをくれただけで、大切な母乳の保存には無力であった。これではいけない、このままにしておくわけにはいかない、ふいに脳裏に記憶の断片がよみがえった。痛くない乳房マッサージを発案した助産婦さんがいるというニュース、それを図書館で目にしたことを思い出したのだ。
 住所をつきとめ、御茶ノ水駅の近くのオッパイ・ルームと称するその場所に、高熱で真っ赤な顔をした娘を連れていった。きびきびした助産婦さんが、娘をやさしくベッドにみちびき、乳房に蒸しタオルをそっとかぶせる。やがて指がなだめるように何度か円をえがいてから、まるで生き物のように踊り始めた。
 一時間ほどで戻ってきた娘の顔はやすらかで、赤みもとれており、三十九度あった熱は三十七度に下がっていた。マッサージは痛みがまったくなく、きわめて心地よかったのだという。
 近頃の若い女性の身体はすでに栄養たっぷりなので、その上カロリーをとりすぎると、乳質はにごり、赤ん坊はアトピーに、母親は乳腺炎の再発をまねくことになりかねないと知らされた。
 以後定期的なマッサージを受けながら、カロリーをコントロールした菜食中心の食生活を実行し、奏平の退院の日には最上質の母乳を準備することができた。
 新しい命はファーストフードや外食の多かった母親の食生活を変え、母子ともどもこの上なく健康な体をつくることを教えた、そう思われてならない。

その日

日めくりカレンダーの日付がその日のままになっている。
その夜九時ごろ、電話が鳴ったのだ。「隆志さんが倒れたの。いま救急車を呼んだんだけど…」娘の切迫した声だった。
コートの袖に手を通すのももどかしく、夫と車に乗った。
「脳出血かしら? それとも心臓…?」
「若いんだから手術すれば助かるさ」
それ以上の会話は交わさなかった。
人気(ひとけ)のない住宅地の闇に点滅する救急車の赤いライトが不安を一層かきたてる。倒れた原因は心臓だと知らされた。夫は娘につきそって車に乗っていき、私と孫二人が取り残された。
「パパね、キイキ悪いんだって。かわいそうにねぇ」三歳の孫息子は心配顔でそう言うが、一歳の孫娘はふいにあらわれたばぁばを見て満面の笑顔なのがつらい。ともかくパジャマ姿のふたりを一刻も早く寝かしつけねば。孫娘のほうはお気に入りのタオルを顔に当てるとすぐ寝てくれた。
声が上ずりそうになるのをおさえ、孫息子のために『グリとグラ』を読む。
「奏くん、パパがよくなるように神さまにお祈りしようね」小さな手を組ませながら言った。
「うん、ボクお祈りする」
 子供たちの寝息をたしかめてから、居間のソファーに横になった。疲れているはずなのに、目が冴えきっている。娘の結婚生活四年間はまことにめまぐるしかった。式をあげたその年に長男が生まれ、一年半ほどしてまた身ごもり、その間に二度も引越しをして、この年、家まで建ててしまった。十五歳年上で音響の仕事をしている婿は旅が多く、ゆったりと休んでいる姿を見たことがない。私は内心不安だったのだ。
午前一時にようやく電話が鳴った。
「心筋梗塞だ。ダメだったよ」夫の沈んだ声だった。
 〈運命が牙をむいておそいかかってくる〉自分が以前翻訳した小説の一文が不意によみがえった。

 通夜と告別式には幼い子供たちを出席させるにしのびないということで、私が自宅で世話をすることになった。丸一日、家にいては時間をもてあましてしまうので、近くの児童館に連れ出した。
 若いママたちが子供をベビーカーや自転車にのせて、次次にやってくる。オルガンが鳴り体操が始まっても孫たちは仲間に入ろうとしない。子供につきそって歌い、身体を動かしているママたちがみんな、元気で頼もしい夫を持った幸せな人たちに見える。私はそっと輪から抜けだし、孫たちを図書室に連れていった。
 しばらくしてまた体操の部屋に戻ろうとしたのだが、奏平が、イヤだ、と言う。
 「ボクきらいなの」ここニ、三日この言葉の連発なのだ。〈きらい〉は拒否、不愉快、哀しみの全てをあらわしているのだろうか。
 告別式から戻った娘は、大勢の友人が焼香にきてくれて、涙を流してくれたと報告した。中学から大学を通しての友人、サークルの仲間、仕事の同僚、全ての友人、知人に躊躇することなく訃報を知らせている。
 私はむこう一週間にしていた約束の相手だけに断るわけを話した。しかも他の人にはしゃべらないで、と頼んでしまった。突然襲った悲劇を、これからの人生のハンディのように感じてしまっている。
 そんな本音の裏側で別の声がささやく。〈これは神が与えた試練なのだ。どう乗りこえるか人生の正念場だぞ〉と。娘親子のために自分の生活を犠牲にして尽くすべきなのか? それほどには強くなれない自分を知っている。
 これまでの私の人生は、子供たちの入試の失敗や、親の病気といった程度の困難にはぶつかってきたが、おしなべて平穏だったのだ。婿の夭折という爆弾のような悲劇に遭遇し、哀しみより先に不安におびえ、そのくせ妙に冷静になって、行く末を考えている自分をもてあましていた。
 いまの状況の捉え方を知りたい。不幸の乗り越え方のよりどころがほしい。そういうことが書かれている本はないのか。図書館中を探しまわったが、そのような書物は見つからなかった。
 そうだ、アメリカには〈セルフ・ヘルプ〉という実用書の分野がある。アメリカの友人に頼んでみよう。ヘレンがいい。彼女なら今の状況を理解してくれるだろう。二十数年前夫のアメリカ駐在に伴い、四年間イリノイ州のエヴァンストンで暮したとき、娘が幼稚園で仲良しになったエリーサのママ、ヘレン。知り合ってまもなく、私宛の封筒に戦時中の大統領トルーマンの切手を貼ってしまったと詫びたヘレン。アメリカ人にはめずらしく、しゃべるよりも、書くことに自分の気持ちを語るひとで、お互いの息子と娘が同年齢だったこともあり、帰国後も文通しあって、親しさを保ってきた。娘は成人してから、夏の一ヶ月を単身、彼女の家で過ごしたこともある。
今の私のふがいなさ、娘を慰める言葉に窮しているこの状況を書き表すには、あいまいな言い回しの少ない英語という言語がまさにふさわしかった。依頼の手紙を出すと、ほどなく「あなたの慰め方を教えてくれて、ありがとう」という書き出しの返事と共に、一冊の本が送られてきた。
 『愛するひとを失った哀しみをどう乗り越えるか』と題するその本は、〈失ったことを理解する〉〈生き抜く〉、〈癒されていく〉、〈成長していく〉の四つの段階に組まれ、わかりやすい言葉で一ページずつ、九十四章にまで順を追って、悲しみをのりこえていくプロセスを記している。
 驚いたことに、心理学者と精神分析医と詩人との共著なのだった。心の動きを正確にとらえながら、大丈夫だ、と励まし、納得させつつ、右ページに美しい愛の詩を掲げる。その構成は心にくいまでに読む者の心をとらえる。
 「一大変化が起こったのだから、それに付随する変化を起こさないように/忙しくしていられるならば、癒されているのである/成長していくものをそばにおくこと。新しい観葉植物、ペットなど/電話を利用して、できるだけ人と話すこと/イライラしたら楽器にぶつけるのもよい…」などなど。日々、日常をこなしていく中で哀しみや苦しみを消化させていくやり方を教えている。
 娘にこの本を渡したのだが、音楽を教える仕事と、幼稚園の入園準備で目が回るように忙しく、読みとおせなかったらしい。つまり忙しくしていられたのだから、癒されていたのである。海を隔てた友人が私たち母娘のことをおもい、これほどの良書を贈ってくれたという事実も励みになって、起きたことを受け止め、明日に向かっていく勇気が出せるようになっていた。


孫たちとの日々

 一歳の孫娘は父親の顔さえ覚えておらず、さしあたって成長に影響はみられなかったが、三歳の孫息子のほうにはいろいろトラブルが起きていた。まず排便の失敗。幼稚園に入るまえなのに自分からなかなか教えようとしない。ママは気が気ではなく、しょっちゅうパンツの中をのぞいている。
 「奏クン、ウンチおしえてね、おねがいだから」
 「ウン、おしえる」返事はいいのだが、当てにはならない。
 当時八十七歳の実母は兄のところで自宅介護されていた。歩行が困難なので、トイレにも付き添いが必要だった。
 「おばあちゃまったら、ちっとも教えてくれないのよ。もう三日も便秘してるのに」
久しぶりに訪ねた私に、義姉がしきりにうったえる。
 「お母さま、したくなったら教えなくちゃダメよ」
 「うん、そうだねえ」返事はまともだが当てにはならない。
 実母と孫息子とはちょうど上りと下りの電車がすれちがう接点のような状況らしかった。ひとが生まれてからどのように老いていくかを両面からつぶさに見せられているという実感があった。

 幼稚園が始まってからは、自分の気に入らないことが起きたり、思うように作業ができなかったりすると、感情をたかぶらせたり、部屋を出ていったりすることが多くなった。トランプ遊びをしていても自分が負けるとカードを叩きつけたりする。忘れ物も多いと聞く。娘があまり困っているようなので、区の子育て相談に電話をかけた。事情を話すと、穏やかな声の女性が言った。
 「そういうことがあとになって起こるより、今起きてよかったんですよ。夜寝るとき、なるべくお母さんが一緒に寝て、本を読んだり、お話をしたりしてください。お母さんが疲れているなら、お子さんに読ませてみるのもいいでしょう」
私はひととき心がやすまった。

 娘は小学生や音楽学校を受験する学生たちにソルフェージュや楽典を教える仕事をしており、それが毎週土曜日だったので、孫たちは土曜の朝から我が家にきて泊まり、ママが日曜の夕方迎えにきて夕食を共にして帰るというのが決まりになった。孫たちが五歳、三歳になるころまで、どのように長時間を楽しくすごさせるかが、私たち祖父母の課題であった。歩行がむずかしくなった義母の自宅介護もあって、祖父母二人で出かけるのがむずかしいときもあった。
プールに泳ぎにいくのはもっぱら私の仕事だった。けれども子供プールに入れておけば楽というわけにはいかなかった。大きいプールで泳ぎたいといって騒ぐ奏平をなだめながら、孫娘には浮き輪につかまらせ、すぐ戻ってくるからね、と言いきかせて、奏平の泳ぐのを助けるのだが、ばぁばーっ! と叫んで出てきてしまう孫娘のところに駆け寄らなければならず、二つ身体があればと切実に思ったこともしばしばだった。

 渋谷にある東京都児童館や、青山の子供の城にも何度足を運んだことか。ある日義母の排便の始末が長引き、出発が後れ、浮かない気分のまま、二人を子供の城に連れていくことにした。急行は土曜とあって混んでいて、二人の子供は押しつぶされそうになり、笑顔が消えていた。渋谷駅で、奏平が児童館の方がいいと言い出す。妹はイヤッ、と言ってきかない。二人の言い争いが終わらないので、ジャンケンで決めることにした。運悪く彼が負けて、地べたに寝転んで大声をあげる。しまいにはボクひとりで行くといってさっさと階段のほうに消えてしまった。戻ってくるだろうとしばらく待っていたのだが、姿を見せないので、孫娘の手を引きながら、児童館に向かった。門衛のおじいさんに訊いたのだが、そういう子は見かけなかったと言われ、呼び出しのアナウンスを頼み、おじいさんに孫娘をみていてもらって、五階までくまなく探したのだが、見つからない。「ぼくなんか死ねばいいんでしょう」などと言うこともあったので、不安は増すばかりだった。ついに自宅に電話し、夫にきてもらうことにして待っていたとき、私を呼び出すアナウンスが聞こえた。東急の渋谷駅からで、奏平を保護しているという。もう少し駅で待っていればよかったのか。
 まったく何という一日だろう。ともかく無事でよかった! 叱りたくなるのをおさえ、駅の事務所の椅子に神妙な顔で坐っている奏平に、歩みよった。
「奏クン、あなたも一生懸命探したかも知れないけど、ばぁばも児童館まで行って、一生懸命探したんだよ。でも困って駅員さんのところに行って話したのはえらかった。ほめてあげる。これからはこんなことがないようにしようね」

 駒沢公園には数えきれないぐらい通った。石造の動物がおいてある、ブタ公園、ウマ公園、リス公園、どこも孫たちは大好きで、いつまでいても飽きるということがないくらいだった。
孫たちが十歳、八歳になった二月のある日、久しぶりに、夫も一緒にブタ公園に出かけた。大小四体の目を閉じた石のブタがうずくまっていて、その後ろにトンネルをくりぬいた小山がある。その山がきょうはなんだか低く見えた。二人が成長したせいなのだろうか。二人は早速その山によじ登り、真ん中の穴から、トンネルに降りたち、おっかけっこをしたり、滑り台を競争でかけおりたり、すごいスピードなのに危なげなく遊びはじめた。
「手がかからなくなったよ」ため息と共に夫が言った。ひとりで幼い二人を連れて、片時も目をはなすことなく、世話をしたこともあったのだ。
二人乗りの自転車に私と奏平が乗って公園を半周したのだが、彼の方が勢いよくこぐので、バランスをくずし、道路わきに座礁してしまった。
「ばぁばったら、まったく…」と笑いながら言ってうしろを向き「すみません。お先に行ってください」と後車のひとに挨拶したのには驚いた。
夜は鍋料理。奏平は食べたあと、自分の皿にコップをのせて台所に運ぶ途中でコップを落とし割ってしまった。「ごめんなさい!」と間髪入れずに言う。
「すぐあやまってえらかったね」と私が言うと、孫娘が言った。
「ばぁばがせっかく買ってくれたコップなのに」
妹に言い返そうとしない奏平に、また驚いていた。

中学二年になった奏平は私の背をようやく越した。最近はおだやかになってあまりキレることがない。先日娘の家に留守番に行ったとき、小学校の卒業記念文集を見つけた。六年間で一番印象に残ったのは…という書き出しが圧倒的に多い中で、奏平の文は違っていた。
「石が深沢に転がっていた…」で始まるその内容は、自分たちが一年のとき、石ころのようにちっぽけな存在だったが、「力を合わせる」ことを重ねて、岩石のような塊となって何かを動かすことができるようになった、というものだった。それを学年ごとの運動会を例に出して、チームワークがどのようにしてできたかを具体的に述べている。
運動会は父親が華やかに登場する場である。応援する父親、ボランティアで働く父親、父兄参加の競技で張り切る父親。どんな思いで見ているかということばかりを想像していたのに、こんなことを考えるようになっていたとは。
クラスのランキング五項目に彼の名があった。〈キャラがこい人〉四位,〈早く結婚しそうな人〉四位、〈将来有名になりそうな人〉二位、〈ありえないことをし出す人〉二位、〈長生きしそうな人〉四位。
ばぁばの出番は確実に減りつつある。救急車の中で神に祈ったことがほんとになるなら、私の寿命は長くはないかもしれないが、奏平がほんとに早く結婚して長生きするのなら、それを見届けたいという欲が出ている。


2017年10月22日 (日)

氷雨の一日ではあったけれども・・・

土曜は通常、一日ブリッジトーナメントの日である。
きのうも52人、四人一組になって戦うイーブンチャンスに参加した。
ペアはあらかじめ約束した二人だが、どのペアと組むかはその日にならないとわからない。
運もあるのである。
最初の2ラウンドは大敗に終わり、きょうは運がなかったとあきらめるほかないのかと思っていた。ところがランチ前の2ラウンドを勝ち、真ん中辺の順位に達し、更に午後、ずんずんと勝ち進んで、トップを争うまでとなった。その日の1位は負けなしの不動の強さを誇るチームなので、かなり善戦したけれど、追いつかず、最終結果は2位。

ブリッジゲームの勝ち負けは人生に似ている、と言ったひとがいるが、この日は正にそうだった。どん底から這い上がることもある。最初にトップでいても、まっさかさまに転落してしまう日もある。

夜はその足で、自由が丘のレストランで開かれる出身校の支部会に出る予定なのでかなりハードな一日なのだけれど、好成績に終わったゲームの高揚感で氷雨も気にせず、出席。

10人ほどの出席者、選挙の話から、健康体操、高齢者向きレストラン情報の話まで、会話は途切れず、盛り上がった。イタリア料理も大皿盛りが供され、好きな分量をとることができ、カルパッチョや、チキンのバルサミコソース焼き、ホワイトソースのニョッキなど、おいしく、旺盛な食欲に自分でも驚く。

東京のトップクラスの高齢ホームに暮らすひとが出席していて、そこの食事がおいしくない、と言ったのに驚いた。そういう本音を隠す向きもあるのに、彼女の率直さも好ましかったが、なんでも隠さず、話せてしまうようなその夜の雰囲気のせいもあったのだろう。

経済的に恵まれているからこその理想郷かと想像していたのだが、ひとによっては満足できないこともあるものらしい。

2017年10月19日 (木)

電話かメールか・・・

娘との気まずい電話のあとの修復を、やはりなんとかしておかなければ、と思い、メールをした。「あなたをなんとか慰めたくて」というタイトルで、きのうのわたしの反応は心無かったと言う言葉と、自分も娘ぐらいの歳のとき、母親からの電話がうとましかったこと、そして職場のストレスや、愚痴などを、かかえこまずに、我が家を吐き出す場所にして、と書いておいた。

ほどなく娘から「いろいろごめん」というメールが届き、仕事は毎日が戦場で、理不尽なことや、抑圧や、誹謗中傷などが渦をまき、働き終るとパンパンに膨れ上がったストレスの空気を抜くことで、何も考えたくないくらいになるのだけれど、でも仕事をしていれば当たり前のこと、鬱になる種類のものではなく、裏を返せば今の孤独になってしまった自分のやり甲斐でもあるので心配には及ばない、と結んであった。

こういうやりとりは前にもしたことがある、母と娘のシンドロームとでもいうのか、繰り返しているという実感がある。

母をうとましく思ったわたしのあのころは、それが本心ではないのだと敏速に伝えるメールという手段もなく、母をより深い孤独においやっていたのではないかという悔いの思いとともに、今のわたしはあの世の母と心ゆくまで話したい、そう今ならば、という感じなのである。

電話で始まった不具合はメールでおさまった。でもその逆のこともある。メールを読んでもらえず、てっとり早い電話のほうで音声の伴う言葉から誠意が伝わることも・・・

電話とメールをいかに使い分け、こころの通い合いを保っていくか、いまはそれが敏感にできても、いつか鈍感になってしまう配慮の衰えを想像して、10月にしては寒すぎる天候により寂しさを感じたのだった。


2017年10月18日 (水)

続、きのう・・・

きのうの昼過ぎ、国際婦人クラブで同時期、奨学生の選考委員をしていたひとがクラブを退会してしまったというので、電話してみた。同い年の彼女、八十をまえに、もうやるべきことはすべてやったからと、決意をしたのだという。

ご主人と仲睦まじい彼女、海外旅行はいつもカップルなのだが、昨年クルーズに参加したときご主人がインフルエンザになり、幸い同室の彼女は無事だったそうで、手当も病院並みに行き届いたというが、拘束された状況になり、大変だったようだ。ご主人はもうこりごりだということで、海外旅行は打ち止めになったと言う。

そんなお互いの消息を話し合い、およそ一時間以上しゃべった。
同世代の電話はやはりメールより便利、お互いの体調も声の調子で察することができたりする。

でもこの電話という通信手段、娘世代にはとても迷惑らしい。わが娘は語学校の教師だが、夜の帰宅が遅いので、わたしは、元気かどうかだけ、知りたくてつい、電話してしまうのだが、それがとても迷惑らしく、いつも不機嫌な声が返る。

きのうもほどなく開かれる孫娘のコンサートに行くときの打ち合わせをしたくて、つい電話にしてしまったのだが、あまり迷惑そうなので、すぐ受話器をおいてしまった。ところが肝心の開始時間を訊き忘れたので、それだけ訊くつもりでまた電話してしまったら、職場で不愉快なことがあったらしく、疲労困憊で戻ったところなのに、一方的にまくしたてないでよ、というので、こちらもガチャン。

でもなんだか様子が心配になってきた。いま孫息子も独立し、孫娘は地方の交響楽団のメンバーとなって、東京住まいではないので、娘は独居である。
このところパソコンのやり過ぎなのか、夜になると腕が痛くなるので、メールはしたくない。

いまできるのは孫たちにママを元気づけてもらうこと。幸い孫息子には電話が通じたので、私から聞いたとは言わないで、と前置きしたあと、ママの様子が普通じゃないからすぐ電話してみて、と頼んだ。


きのう・・・

前日、デイケアの体操で、痛い身体を随分と折り曲げ、ほぐしたのに、身体の奥の疲れのよどみのようなものが、しこっているので、予約をとって、マッサージを三十分してもらった。

それからバスに乗って、田園調布の書店に行く。曽野綾子さんの『夫の後始末』をまずはぱらぱらとめくってみて、それから買うかどうか決めよう、と思っていたのだ。

この本はすでに、ネットのgenndaiというサイトで、かなりくわしい内容を読んでいた。曽野さんが同業のご主人とは、意外にも共通点は少なくて、彼女が興味を示すものを共有することはなかったということに、うちと同じなのだと同感することがあったこと、自宅介護の詳細と、そのときの彼女の心の動きが書かれているらしいので、いずれ来るかも知れない我が家の危機にそなえられるかも、と期待したからだった。

ところが書店に平積みされているはずの、その本が見当たらない。店員に訊いたら、冷ややかな声で、売り切れです、在庫もなく、いつ入ってくるかもわかりません、と言うのである。

ああ、自分が思うことはみんなも同じなのだ、とつくづく思った。

帰宅してアマゾンをのぞく。新刊はかなり先の手配、中古本はプレミアがついて、1000円の定価なのが、1700円以上になっている。迷ったが、このところ書籍を買っていないので、ま、いいかと、購入にクリック。(続く)

2017年10月12日 (木)

よくぞ、ふたたび

今年の夕顔を可哀そうだった。立派な一番花を咲かせてから、残りの蕾が次々咲くものと期待していたのに、開きかけると、驟雨に打たれ、とうとう次の花が咲かないままに終わるのかと思われた。

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ところがツルだけはどんどん伸びて、ついにはモッコウバラのシュートにすがりつき、どんどん昇っていくのである。そのシュートだけは切るにしのびず、そのままにしておいたら、昨日の夕方、あっと思うことが起きた。モッコウバラの葉影に隠れて見えなかった蕾が見事開く、という次なる贈り物をくれたのだ。005_2


どんどん丈をのばすシュートが妙にべたべたしていると思ったら、蜜を含んでいるらしく
蜂がしがみついて、蜜を吸っている様子も、興味深く眺めた。

夕顔の咲き具合の現象は、人間界に起きる運、不運にも似ている。
それがこの年齢になってからこそ、つくづくと悟ったりするこのごろなのである。

2017年9月21日 (木)

アクセス情報

衆議院会館で開かれる講演会に行くことになったのだが、これまで行ったこともないところなので、主催者にも訊き、ネットからもアクセスを探した。地下鉄の国会議事堂前か、永田町から、ということだったが、前者は渋谷を通らなければならず、後者は構内が複雑で、エスカレーターや階段の接続有無もよくわからない。迷っていたら、夫が母校の日比谷高校の近くじゃないか、と思いだしてくれて、溜池山王から、というルートが見つかった。六番出口、これがエスカレーターの接続がよく、出てからもすぐ左の坂をのぼって信号、また左、という容易い道順、危なげなく到着した。

グーグルマップの一つ目小僧みたいなしるしが嫌いだ。いざ徒歩の項目をクリックしてたどろうにも、私はスマホを持っていないので、いまひとつ確かさが足りない。実際に行ってみたことがあるひとから、訊くのが一番なのだが、道案内の言葉をわかりやすく、的確に話すひとが少ないことを痛感する。

澁谷に行くのはまだ、できれば避けたい。でも大好きな東横のれん街には、ときどき無性に行きたくなる。いい漬物店と、菓子店、おせんべいの店が充実しているし、独りご飯用のおいしい店も各種そろっている。
澁谷へ行くのに、中目黒で途中下車してバスを使うというルートを知った。教会の婦人会で、出会ったある高齢者のメンバーからの情報である。これを試した。中目黒を降りるとすぐ右手に渋谷行きのバスが待っている。二種類あるから、頻繁に来る。乗ってからおよそ十分、ガード下のちょっと先に停車してくれるので、のれん街にも近いし、ブリッジクラブにも近道になる。

いつも耳をそばだてて、好奇心をはりめぐらし、情報を得ながら、暮らしていかないと、高齢者はどんどん出遅れて、便利さへは遠回りになってしまう世の中である。

2017年9月17日 (日)

ピカール食品入りのランチ

夫が落ち込んでいる。
マージャンの会が四組あったのに、メンバーは亡くなったり、重病だったりで、今や二組だけ、その、残り一組のほうを企画してくれている高校時代からの親友が駅のホームで転倒して入院したのだ。夫も転倒しそうなのに、二本杖で品川の救急病院に馳せつけた。幸い命に別状はないとのことだったが、会は復活しそうにない。

仲良しがみんないなくなりそう・・と沈んでいる。カレンダーの丸印は最後の一組のマージャン会と、歯科医の予約だけ。わたしのほうは○のない日のほうが少ないくらいなのに。

なんとか新しい楽しみをと、高齢者「憩の家」で、ビリヤードはどお?
よく通る声をしているので詩吟でもやってみたら?
とすすめてみるのだが、今さら新しいことなんて、と首をふる。
つきあっているのは学生時代か、ビジネスを共にした人たちだけ、偏屈で、頑固なのである。
それどころじゃない、このごろすごく疲れるとも言いだすし、ごひいきDeNAベイスターズも四位に落ちてしまったので、これは何とかしなければ、と思った。

娘に緊急メールし、孫たちとそろって三人、ランチに来ることになった。六人分を手作りするのは、正直、シンドい。というわけで、出かけた帰りに麻布十番のピカールに寄ってラザーニャとカナッペを買ってきた。冷凍食品二つはドライアイスもついて重たい。ネットから注文するほうがよさそうだ。

オーブンで五十分、かなり時間がかかる。この二品とあと手作りの玉子とキューリのサンドイッチ、コーンとグリンピースのオリーブオイルいために、ゴーヤのピクルス。
娘も孫たちも褒め上手だけど、それだけではなさそう、おいしい~っつ、こういうの食べたかったんだといいながら、あっというまに平らげてくれた。002_2


夫は歴史にくわしく、終戦直後は天津にいたので、料理人がつくる家庭料理のことや、いまだに覚えている中国語の発音の指導をうけたときのことなど、一度も咳こまずに饒舌に語った。いま問題の北朝鮮の情勢なども説得力ある見解を述べる。孫たちもじいじのためだから、と興味を示すふりをするのではなく、本当に面白そうに聴き入っていた。

高齢者はみな記憶をよびさましてそれぞれの過去を語ることを必要としているのではないか?そういう場はだれかが用意しなければ、わたしにも、子供や孫たちはそういうときをつくるだろうか?でもわたしにはそれを語るブログという場がある・・・などと思いながら耳を傾けていた。

2017年8月14日 (月)

ようやく咲いた

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二か月まえに阿佐ヶ谷で買ったユウガオの苗、十倍ぐらいに伸びて蕾がつき、ようやく開花した。
花も美しい白色だが、これこそ芳香というのか、やさしくて、清らかな香りがする。

母がいまのわたしくらいのとき、ユウガオが咲いたと大喜びだったのが今ならわかる。

きのう、日本映画専門チャンネルで『わが母の記』という映画を観た。井上靖の私小説の映画化であるが、出演者もすべて適役、名演技、場面展開が見事、最後まで目をくぎ付けにして観入ったのだが、「父が亡くなってから、何でもないふとした瞬間に、自分の中に父がいるような気がする・・・」という文章があって、惹かれた。
私のこのごろは、そのような瞬間がしきりとある。

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朝になっても、花はまだしぼまない。まだ六個ぐらい蕾がついている。
この花たちが芳香をくれ、酷暑をのりきる力をくれることだろう。

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