かみ隠し
お墓にお骨を収めてやれやれと、思っていたのに、今度は大きな荷物が配達されて、それがなんとお花なのである。いろいろアレンジされたものであったり、ランが一種類だったり、下さる方は心をこめてとお気持ちはわかるのだが、いただくほうは荷物をほどくのが大ごとである。そのたびに息子に頼むのだが、一人住まいだったら、さぞ、と思ってしまう。いま、夫は三種の花に囲まれている。胡蝶ラン、洋花のアレンジ、今日、もう一種大きなランが届いた。これは植木鉢で、白いランであった。お花騒ぎはまだ続いている。
それに引き続いて起きたのが,大事なはずの、物のあり場所。いろいろものがなくなって出てこない。小さながま口状の入れ物に入っている,私の印鑑。何十年まえにわたしの名前だけを印鑑登録をしたのだが、それをとりあえず、必要なところに押してしまったので、そのあと、どこにしまったのか記憶は消え失せ、必死に探そうにも思いだせない。いまは、腕時計が消えている。最後に外したのはどこだったのか、その日はいつだったのか、そういう普通の記憶があまりにもいろいろなことを記憶しなければならないので、どこかに消えてしまった。その記憶を整理しようにも、次から次へと覚えておかねばならないのが、ふえていて、どれがどれやら、わからない。いまは香典やお花のもらったところを覚えていて書いたものから礼状を整理するところまではできているのだが、まだ、どんどん後に続くのでそちらに集中すると、以前のがどこかに行ってしまう。
パパが寂しがって、邪魔してるんだよ、と子供たちは言うが、そういえばだれも留守で私一人夜寝ようとすると、どことなく音が聞こえたり、なんとなく薄気味悪い感じがする、と思うときはもう眠くなっていて、また翌日がくる。
私の状況がどんななのか、電話をくれる友人がいる。同じような体験をした、決して異常ではない、そういうものなのだ、ましてや八十六になる歳、当たり前よ、と慰めてくれる。
新しい印鑑を息子がつくってくれた。自分のものも一緒に頼んだのだそうだ。無くなったものを考えるのはよそう、と言う。
有難いことである。
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