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2024年4月に作成された記事

2024年4月26日 (金)

二代目、あんこ

お向かいの家はこの辺では、かなり古いが、高台で陽当たりがいいので、植物の発育が素晴らしい。いまは赤いツツジと、ピンクの名前は忘れtが、花だけが一面に咲き誇る、樹があって、それが二つまばゆいように、ピンクの濃淡を見せている。

黒い犬がいて、あんこ、と言う名がついていた。二代めも似たような犬で二代目あんこである。ご主人は花の世話と、犬の散歩が主な仕事で見事にこなしている。

このところ、散歩姿を見ないので、どうしたのかな、出逢った時に尋ねたら、死んだんですよ、と言う返事でびっくりした。

高台の家は急階段がついていて、あれは年取ったら大変だ、と思っていた。

そういえば、散歩がえりの犬が、登ろうとしないときがあった。あれは、死期が間近かったのだろう。

人間でもわたしたちの年頃だったら、尻込みする急階段、今になって思い当たる出来事だ。

あんこは、三度ぐらい拒否していたが、最後に上った。

2024年4月20日 (土)

火葬の日

子供たちが決めた一番早い日は、五日後の午後、大田区平和島にできた新しい火葬場と言うこと、良く知っている桐ケ谷でないことが不安だったが、費用が倍くらい違うことと、一週間ぐらい待たされるのを知ったので、新しいところに決めたのだが、これは成功だった。夫の死に化粧を頼んだことも、よかった。ごく自然に見える安らかな顔で、眠っているように見える。霊安室に寄って、お別れをすます。夫の好きなものすべてを入れる。そして一番先に着いた花一式を持っていったのでそれを、すでに置かれていた花に加えて、皆で飾った。

そこから火葬場までは、二十分ぐらい、すべて娘の車が私と、息子と孫息子を乗せて走る。火葬場のある式場はとても新しい立派なところで、心配していたのだが、杞憂に過ぎなかった。夫の甥と、私の兄嫁とその息子、7人だけの葬儀、必要なことだけをする。最後のお別れ、焼き終わるまでの一時間を、飲み物を飲みながら、待つ。兄嫁とは一年ぶり、その息子とは三年ぶりぐらいだったが、話しはじめたら、会わなかった時間の長さは消えていた。

焼けた後の骨の説明、それを聞いてから、箸を持って二人一組で一度だけ、骨を拾う。残りは係の人がすべて壺に入るまできれいに入れて終わる。

骨壺は息子が持った。家までおよそ一時間、わたしたちは、それぞれの疲れをとるために、すぐ労をねぎらい、別れた。

2024年4月16日 (火)

その日

午前中は絶対に病院に行けるはずがない娘が、そこに出かけていて、夫の呼吸が苦しそうだったこと、寒くて震えていたこと、などを書き記してきて、今日あたりが危ないと、言ってきたのに、驚いた。

わたしも自分自身がふらふらしていて、危なっかしいのに、それを聞いて取るものも取り合えず、夢中で電車に乗ったのだった。

夫は酸素吸入を口からしていて、息を合わせるのにやっとのように苦しそうに吐いていた。あとからご両親がなくなるまでそういう状況で、見ているものは苦しそうに思うが、してもらっている者はそれほどではないということは、知らされたのだが、そのときは、夫が一生懸命、ついていっているように思われ、辛く思ったのだった。夫の手をしっかり握って、声をかけ、励ました。およそ二時間、その状態で、止まったときが、危ないということも教えてもらったけれども、それ以上は自分が倒れそうで、息子にあとを頼んで、帰途についた。

そんなに差し迫った状況ではない、と、思った。強い人なのだ。こんなに頑張らなければならない状況にきている。でもがんばっている。涙がとまらなくなった。

夜の九時前、息子から息が止まったことを知らせる電話がきた。お医者さんが呼ばれている、と息子は言った。

わたしは、泣きながら黒い上下に着替え、呼ばれるのを待った。

息子と娘は二人で、夜中すぎまで、今しなければならないこと、を決めるため、わたしを呼ぶことを避け、二人で耐えてくれた。

2024年4月10日 (水)

久しぶりの外食

珍しく、娘からの誘いで、孫娘が出てきているから、夜の食事を外で一緒にしないかとラインがあった。 

しかも、昼間は夫の病院に行ってくれるという。私には休んでくれていいという有難い申し出だった。

場所をどこにしようかと言う話になって、近場の自由が丘で、待ち合わせも南口にしようということになった。

三人で外食なんて、一年ぶりぐらいだろうか。ここなら絶対おいしいという、スパゲティ専門の店にしたのだが、わたしはノロノロしていて、ナスベーコンのに決めたのがやっとで、彼等のようにデザートまできめておくのを、しないでいたので、娘が自分のプディングを多すぎるから、と言って半分くれた。

混んできて、騒がしい中で、気づいた。左の耳がほとんど、聞こえない。向かい合っている二人の私語はほとんど聞き取れなかった。そのことを娘に言ったら、そうみたいね、とわかっているのを、言われてしまって、このところ、老いを感じることが多く、情けなく思った。

もう86歳なのだから、仕方がない。

ときどき自分の手を見る。なんと、青い血流の空けた哀れな手であろうか。こすって、マッサージをして一瞬何もないかのような手になるが、すぐまた元のあわれな手に戻る。

よく働いた手だ。以前はピアノまで弾いていたのだから。

料理が得意の手でもあった。

近頃は料理の作り方を忘れる、手でもある。すぐパソコンの前に座って、グーグルを呼び出す。一度見ただけではダメで、二度、三度と見直す。それが面倒だから、作るのを辞める、というのではない。自分の味は絶対においしいから、何度でも見直して、完全な、いや、完全に近いものをつくる。

これが面倒になってしまって、何もかも、面倒になってしまって、老い逝くのはいつのことだろう。

 

 

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