贅沢な内覧
わが家から、徒歩三分くらいのところに、高齢者向けのホームが建った。
この三年間、建築の騒音にプラス猛暑で、暑さは耐え難いものがあったが、我が家は通りを一つ隔てているので、お向かいに住んでいる方に比べれば、まだマシだったのかもしれないが、完成して、音がなくなってみると、何と静かになったことかと、驚くばかりだ。それにしても騒音ぷらす、それにかかわるひとの暑さに耐える耐久力がよく続いたものだ。顔を真っ赤にして交通整理のために、怒鳴っている中年以上の人たち。ずっと立ちっぱなしで、よく耐えていると思った。
今回の建物が建つまえは、五階建ての独身寮があったので、まず、それをこわすのが壮烈だった。壊しても壊しても終わらない、結局、機械には頼れない。最後はそれを扱う人の力なのである。
この地に越して六十年、我が家も二度建て替わり、規模も二階建ての中小住宅に変わっている。
外出してみると、内覧受付と言う旗がたっていた。そうだ、ホームに入る予算も、つもりもないけれど、中を観てみたい、内覧申し込みをしてみよう。
申し込みは混んではいなかった。翌日の四時、内覧することに決まった。
内部は思ったより、落ち着いた雰囲気で、派手なかんじはなく、通された部屋も、中庭の大きな樹木にトリの小さな小屋がかかっていて、見えなかったものが、目に優しく入ってきた。
中年の女性が一人だけ、案内役を務めたのだが、次次と示される、数字には関心がなく、うなずくだけで、先を急ぐ。
すでに二十二組の申し込みがあるのだそうで、前途悠々の体制に思われた。白木の床がさわやかである。部屋は必要最低限の広さ、軒が深くとってあるので、ゆったりした感じである。
ふいに今読んでいるメイ・サートンの著作の言葉が思い浮かんだ。「使い古された快適な椅子が一つもないような家には魂がない。私たちに求められているのは完璧ではなくて、人間的であることだという事実にすべて煮つめられる。人間的な家に入ってゆくことはなんという安らぎだろう!」
五階からの見晴らしは素晴らしかった。花火が二子だろうが、横浜だろうが、すべて見られるのだそうだ。
一か月48万円という金額は我が家には高すぎる。それゆえの、感想ではないのだが、わたしはやっぱりまだ住み込んだ家に住んでいたい、と思った。
最近のコメント