聖書と共に
一訪問者として教会を訪れるのと、洗礼を受けて教会員になるのとでは、天と地ほどの差があることに気づくのは、教会という組織の中にどっぷりつかってからのことである。
ましてや、75歳にもなって、ほぼ人生での越し方ができあがってしまっている状況からのおよそ十年、まだ教会員とならないときに得た常識があまりにも通用しないことに、心が打ちくだかれそうになる。
わたしはそれをいやというほど、経験して、大教会を去り、十分の一ぐらいの人数で、礼拝も余分なことを削ぎ落したように整った小教会に転会して、三年余が経った。
個人情報を避ける意味なのか、名簿もないので、会員の名前も覚えられていないうちに、このコロナ禍に見舞われた。会合は全てなくなり、礼拝後の会話なども禁止されているので、名簿がないのはともかく、会員の名前だけでも、プリントしていただきたいと、願い出てみたが叶えられなかった。
礼拝堂の入り口のそばに、飲み水を入れた魔法瓶と紙コップがおかれてあったのに、長老会はそれがコロナ菌を呼び込むことになるかも、怖い怖い、ということで、取り除かれた。でも炎天下の夏の通りを歩き、教会にたどりつくわたしのような高齢者は、水を一口飲みたいと思う。他教会状況を調べてみると、すべて、水分配慮は申し分なくととのえられていて、ペットボトルを渡されるところもあるという。
これまでなかったものを、置いてくださいというのではなく、以前そなえられていたものを、再び戻す、というわけにはいかないのだろうか?と、リクエストしてみたが、これもノーであった。
六月になって一年一度の総会が開かれた。礼拝の見事な整いかたとは、異なり、式次第がはっきりせず、長老選挙の段取りがよくわからなかった。今年は長老の若返りを期待するらしく、すでに三人の名が推挙されたプリントを配られていたが、そのひとが誰なのかわからない。お名前とお顔が一致しないので、お立ちいただけないのでしょうか?と私はまた余計なことを言ったらしく、牧師が緊張した顔で走り寄ってきて、そんな様式はこれまでないので、みたいなことを耳元でささやいた。会が終わって、外に出たとき、初めて会う一人の婦人が近づき、言った。「私はここに十年以上もいるのですが、まだ誰が誰だかわからないんですよ、よく、ご紹介のことを言ってくださいましたね」と。
次の週の日曜日、無事に選ばれた新長老三名の認証式が礼拝中にあった。会衆に背を向けた三人が宣誓の言葉を合唱し、その後ろで会衆が認証の言葉を、呼応し、新長老は振り向きもせず、牧師は改めて紹介もせず、そのままに終わった。
翌週の日曜の朝、わたしは早めに教会に行き、牧師にちょっとお話が、と言って許可を得た。四十歳も年上の私の言葉を、これは「諭し」の一つだと思って聞いていただきたいのだが、と前置きして、認証式のあとはやはり、新長老の紹介をしていただきたかった、と希望を述べた。牧師は不快を浮かべた表情で、「うちのやり方を変えるつもりはありません。ほかの教会はそれぞれです、うちはうちです」と応えた。
わたしは、引き下がらなかった。「旧約聖書の箴言に記されていますね。諭しをなおざりにする者は、魂を無視する者…」と。「高慢と不遜は神が一番厭われることだ」ということも。
その日の献金と、六月分の会費の袋を、祭壇の前の献金袋に入れ、わたしは荷物をまとめて、教会をあとにした。牧師夫人が追いかけてきて、引き留め役をされたが、私の心は変わらなかった。
十歳下で、わたしの教会生活を気にかけてくれている別教会の友人に報告した。彼女が暗記しているという詩編、121編を教えてくれた。なにも怖れることはない、この言葉があれば、教会はいらない、わたしはいつでもあなたの味方よ、という言葉もそえてくれた。
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