コロナ禍がいつまで続くかわからない。この経験を発表するのが最後になるかもしれないので、終戦記念日のこの日、同人誌に載せた文を、お読みいただければと思う。
死をまぬがれた夜から
7歳のときの記憶は断片的である。だが、昭和20年5月24日に経験したことは、まさに恐怖の一夜として脳裏にきざみこまれている。
当時、渋谷区の代々木に家はあった。いまの参宮橋駅に近い、線路沿いから通り一つを隔てた住宅地で、祖母と両親と9歳上の兄、お手伝いのテルちゃんと暮らしていた。銀行員の父はきわめつきの親孝行で、母は姑に絶対服従だった。空襲警報がほとんど毎日発令されるようになっても、祖母は「うちは絶対に焼けません。疎開などもってのほかです」と言ってきかないので、小学校の級友はほとんど去って、遊び友だちがいなくなっても、わたしは母のそばを離れないで、空襲警報のサイレンとB29のうなりにおびえていた。
5月24日、空襲警報が鳴り響いたあとは、いつもと違っていた。二階の窓から見える代々木駅方面の空は真っ赤に燃えて、まるで花火のように無数の爆弾が落下していた。父と兄は私たちに一刻も早く明治神宮に避難するようにと言いのこし、必ず探しに行くからと言って出ていった。隣組の緊急呼び出しがあったのだと思う。
母は祖母を背負い、テルちゃんは家にあるありったけの食糧をリュックに詰め、そこに、金魚の模様の夏蒲団をかけて背負い、わたしの手をひき、四人で家を出た。自宅の裏側の通称13間道路という広い通りに出ていたなら、交差点に刻々増え続ける死体の山の中に入ることになっていただろう。
わたしたちは、裏通りに出て、路地から路地をつたって、神宮の森に入り、そこで一夜を明かした。森の中には大勢の人が避難していた。そして大通りの悲惨な光景のことを話していた。明け方になって、父と兄が私たちを探し当ててあらわれた。わたしは二人に抱きついたことを覚えている。
朝になってから、家に、と言うよりは、家のあったところに戻った。一面の焼野原になっていてかすかな硝煙がたちのぼっていた。不思議と悲しさは感じなかった。もう家にいて、空襲警報のサイレンにおびえることはないのだ、という安堵感のほうが先にあり、そして何よりも、とてつもない空腹をもてあましていた。人々はそこここに、固まって、火をおこし、食べ物の何かを焼く香ばしい臭いがただよっていた。
存命の兄に電話して訊いてみると、彼はシャケ缶をあけて食べたという。あのときのことは思い出したくない、いやなことばかりだった、もう忘れたいんだ、と言った。兄は当時16歳、わたしの孫息子の年齢だった。多感なときに火叩きを持って火の粉を払い落そうとまでしていたのだ。そのあとも学徒動員に出なければならなかった。おなかがすいているだけの、7歳のほうがよほど気楽だったのである。
早速その晩寝るところが必要だった。野宿しないですむようにと、父が代々木駅に近い焼け残った家屋の一間を探してきてくれた。八畳の部屋に六人が寝ようとしていたら、そこに叔母の一家まで転がりこんできたので、押し入れも使ってぎゅうぎゅう詰めの雑魚寝をした。
父はいまのわたしの息子ぐらいの年齢、五十過ぎだったのだと思うのだが、すでに次にすべきことを、果たしていた。尾山台というところに、一軒家を探してきたのだ。疎開しているひとが、帰ってくるまでと言う約束で、住むことになった。もう空襲警報におびえる日はなかった。わたしたちはそこで、終戦を迎えた。
祖母は度重なる引っ越しですっかり弱っていた。それでも、兄が学徒動員から戻ってきたとき、二階から、倒れ込むように降りてきて「昭ちゃん!」と叫んですがりついたのだ。あのときの祖母は現在の私の年齢である。
陽射しのきつい、あの8月15日、大人たちはみな正座し、ラジオから聞こえてくる、難解なボソボソ声に反応して、うなだれ、涙を流していた。
庭にはサツマイモが一面植わっていてその茎をきざんで、雑炊などに入れて食べた。その区域は戦災に遭わず、焼け残ったところだった。近所づきあいが始まると、わたしたちは「焼け出された方」と呼ばれ、ご飯茶碗やら、お皿やら、生活に必要な雑貨類など、恵んでもらった。わたしたちは、気の毒な、可哀そうなひとたち、と思われているということに、なんとなく居心地の悪さを感じることも多かった。
学校は始まっていたが、教科書とは名ばかり、トイレットペーパーみたいな薄さの紙に印刷されたものが配られたものの、勉強をしたという記憶がはっきりしない。友だちはすぐにできた。いじめもなかった。尾山町という多摩川に近い屋敷町に住んでいる同級生の家に招ばれたときは、その家の豪華な家具や調度に目を見張るばかりだった。
進駐軍のジープがよく来るようになっていた。初めはおっかなびっくりだったが、兵隊たちは笑顔で、これまで食べたことがないようなチョコレートやチューインガムを投げたり、渡したりしてくれるので、子供たちは歓声を上げて、追いかけるようになった。
学校の授業の記憶はほとんどない。楽しみは、お弁当を持って、多摩川の土手まで行って、そこで景色を眺めながら食べる時間だった。人家も少なく川のほとりは、樹木も多く、子供たちが走り回って好きな遊びに興ずるには絶好の場所だった。
生活にまた変化が起きた。家の持ち主が疎開から戻ってきたのだ。父はまた次の家を探してきてくれた。世田谷の三軒茶屋の奥、太子堂というところの、庭付きの一軒家、ここは借家として住みはじめたのだが、結局、父が銀行を退職するときに買い取り、わたしは結婚するまで、ずっと住むことになった。
日本という国が戦いに敗れ、国を再建しなおして、落ち着くまでの大変なときに、父は住むところを次々と探してくれた。そのことを、よくぞ、よくぞと、今になって感謝する気持ちでいっぱいになるのに、父の生存中にどうしてそれを言えなかったのかという、悔いに苛まれる。
夏は暑さに弱いわたしにとって、つらい季節である。外に出ると燃えるような気さえする盛夏の真っただ中の八月15日、大人たちが泣いていた日から五十五年後、娘は出産予定日に産気づき初孫が生まれた。だが、赤ん坊は三日後に発熱して救急車で大病院に運ばれ、不安の一か月を過ごした。その三年後の同じ日、認知症で数年を兄の家で過ごしていた母が亡くなり、かけつけたときは、私だけが泣いていた。
八月十五日は終戦記念日でもあり、孫息子の誕生日でもあり、実母の命日でもある。
(十年以上まえに書いたものを、土台にしました)
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