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2021年8月に作成された記事

2021年8月31日 (火)

メモからノートへ

パソコンのまわりはメモだらけである。

整理するひまがないので、何をどれに書いたかわかなくなる。おまけに走り書きをするので自分で書いた字が読めない、という悲劇もつきまとう。

先日も、教会の友が手術をするとわかり、その住所を書いたメモがどうしても見つからず、また牧師館に問い合わせるという、恥ずかしいことをしてしまった。

 

まだ生き残っている数少ない賢い友に電話でそのことを話したら、わたしもそうだけどね、もうメモはやめたほうがいいのよ、ノートに変えて日付を書いて残しておくの、という忠告をもらった。

なるほど…ノートにするなら、何かを書きたくなるようなしゃれた、しっかりしたものが欲しい、そう思って探していたら、先日検診で元町のクリニックに行ったとき、元町をぶらぶらしていて、銀座の伊東屋の支店を見つけた。そこで目についた何とも言えないきれいな水色のこのノート、罫の幅もひろく、紙もしっかりしていて、100ページの余裕、ノートよりは小さ目、メモよりは大きめ程よいサイズ、値段は800数十円、ノートにしては高額だったけど、おうちごはんで倹約しているから、余裕の予算である。Kimg0344

買い求めて正解だった。

 

書き残していくのが、なんだかうれしい毎日。その日はまず、元町UNIONでシリアルを買おうと思ったのに、そのシリアルが口から出なくなってアワアワしたので、それを一番に書いた。

今朝の二時間でもう三つのメモ書きがある。

リスト、ヴェネチアとナポリ、ロッシーニ、老いの過ち、この二つはFMで流れてきた音楽の題名の書き写し、

それと、メモノート344,これはパソコンデスクトップに保存した、このメモノートの写真の番号である。

でも何のために書き写したのか、それを記さないといまにわからなくなるかも…

2021年8月27日 (金)

ネットフリックスのこと

”あなたにイチオシ”

“あなたにピッタリ“

“「シンプル・フェイバー」をごらんになったあなたへ“

ネットフリックスにログインすると、私の名前を、~さん、と呼びかけて、こういう表題がしつこく並ぶ。でも本当にイシオシでピッタリの作品はほとんどない。

たった一つの作品から、こういう傾向のものが好みだろうという、推量をしているだけだから、大きなお世話、と言いたいが、視聴者の興味を把握し続けようとする、うすっぺらい努力などしなくていいから、こちらが検索しやすく、作品の年代を考慮した分類などにも整理してほしいと望むのは、むずかしいのだろうか。それから同じ傾向のテーマ別ばかりでなく、名監督の作品、例えば、ビリー・ワイルダー、ウイリアム・ワイラー、マイク・リーなど、少々古くても、心に深く残る名作を、監督別に並べてくれるような配慮を、要求するのは無理なのだろうか。

人気作品のトップテンはほとんどがアニメ、アニメフアンの視聴者が圧倒的ということなのか。

 

「シンプル・フェイバー」は偶然クリックしただけなのだが、めずらしく、出演者の名前が先に提示されて、その中に、ルパート・フレンドの名があったので、この人に会いたいという思いで、見続けたのだ。ニューヨーク郊外に住むシングルマザーが同じクラスの男の子のママから、いわゆるシンプルフェイバー、ちょっとした、お願い、ちょっと預かってもらえる?を頼まれて、そのママが行方不明になるという事件にまきこまれるという、サスペンス、なのだが、感動というにはほど遠いが、ただ、結末はどうなるかだけを知りたくさせて、ひっぱっていくテクニックだけは見事、大好きなルパート氏は、行方不明になったママの勤務する会社の社長で、強いインパクトを残す演技ではあるが、友情出演くらいの出番わずかで、残念だった。

 

あの、『時の面影』のような重厚な名作は、kikukoさんのブログからの情報がなければ、出会えなかった滅多とない遭遇だったと思う。一番はじめにこの作品を観たのに、呼びかけにこの題名はなかったし、もう作品自体が、消えてしまったようでもある。

 今わたしはAXNミステリーと、WOWOWプラスも視聴しているので、録画しておけるこの二つで、けっこう満足している。ネットフリックスは九月でやめてしまって、息子の登録のほうに入らせてもらう程度にしようかと、考慮中である。

2021年8月22日 (日)

ナメクジ被害

今年は八月に入ってからも雨降りの日があり、地面の湿度が一段と高くなったためか、ウッドデッキに意外な侵入者があらわれた。

ナメクジである。

日日草の元気がなくなってぐったりしているので、どうしたのかしらと根元をよくみたら、ニョロニョロがいたので、キャーッと叫んでしまった。小さくてもニョロニョロ系は嫌いである。カタツムリはかわいいが、中身だけはちょっと…である。

ネット検索してみると、今年になって畑などもナメクジ被害は結構多いらしい。花壇では、好みがあって、日日草とかビオラが被害に遭いやすいという。バジルも葉っぱが穴あきになってきたので、同類の被害かもしれないと思ったら、安易にちぎってサラダに入れるのもコワくなってきた。

近所の苗店で相談するとまいておけば、食べて翌日死ぬという、粒状の薬品をくれた。なおもネット検索で、コーヒーかすを嫌うこともわかったので、今コーヒーかすを捨てないで、窓際で干している。ビールが大好きだから、入れ物に入れて出しておけば、喜んで集まってくるというけれど、集まるというのを想像するだけ、寒気がする。コンテナや鉢をよくかわかすことも大切だというので、裏返してみたら、ちっちゃな玉子みたいなものが、ぎっしりついていて、またぎゃーっつ、であった。

 

この家の庭は湿度が十分すぎるくらいで、苔が生えていたり、したのだが、最初に建てた家は建付けも悪く、そういえば、家の中でナメクジを見つけたことがあった。

今の家は大工さんもしっかりしていて、すきまなく建っているので、まさか、と思うが、ウッドデッキにまで上がり込んでくるとは、驚いた。

外に出て花に水やりするときも、いつもナメクジのことを気にしている。

 

今の楽しみは、ヘブンリーブルーをまたモッコウバラにからませたので、それが秋になってから咲くことなのだが、まさか、朝顔の鉢にはナメクジめがいないだろうと、割りばしでかきまわしてみたりする、怖気ぶりになってしまった。

2021年8月15日 (日)

死をまぬがれた夜から

コロナ禍がいつまで続くかわからない。この経験を発表するのが最後になるかもしれないので、終戦記念日のこの日、同人誌に載せた文を、お読みいただければと思う。

 

                                   死をまぬがれた夜から    

 7歳のときの記憶は断片的である。だが、昭和20年5月24日に経験したことは、まさに恐怖の一夜として脳裏にきざみこまれている。

 当時、渋谷区の代々木に家はあった。いまの参宮橋駅に近い、線路沿いから通り一つを隔てた住宅地で、祖母と両親と9歳上の兄、お手伝いのテルちゃんと暮らしていた。銀行員の父はきわめつきの親孝行で、母は姑に絶対服従だった。空襲警報がほとんど毎日発令されるようになっても、祖母は「うちは絶対に焼けません。疎開などもってのほかです」と言ってきかないので、小学校の級友はほとんど去って、遊び友だちがいなくなっても、わたしは母のそばを離れないで、空襲警報のサイレンとB29のうなりにおびえていた。

 5月24日、空襲警報が鳴り響いたあとは、いつもと違っていた。二階の窓から見える代々木駅方面の空は真っ赤に燃えて、まるで花火のように無数の爆弾が落下していた。父と兄は私たちに一刻も早く明治神宮に避難するようにと言いのこし、必ず探しに行くからと言って出ていった。隣組の緊急呼び出しがあったのだと思う。

 母は祖母を背負い、テルちゃんは家にあるありったけの食糧をリュックに詰め、そこに、金魚の模様の夏蒲団をかけて背負い、わたしの手をひき、四人で家を出た。自宅の裏側の通称13間道路という広い通りに出ていたなら、交差点に刻々増え続ける死体の山の中に入ることになっていただろう。

 わたしたちは、裏通りに出て、路地から路地をつたって、神宮の森に入り、そこで一夜を明かした。森の中には大勢の人が避難していた。そして大通りの悲惨な光景のことを話していた。明け方になって、父と兄が私たちを探し当ててあらわれた。わたしは二人に抱きついたことを覚えている。

 朝になってから、家に、と言うよりは、家のあったところに戻った。一面の焼野原になっていてかすかな硝煙がたちのぼっていた。不思議と悲しさは感じなかった。もう家にいて、空襲警報のサイレンにおびえることはないのだ、という安堵感のほうが先にあり、そして何よりも、とてつもない空腹をもてあましていた。人々はそこここに、固まって、火をおこし、食べ物の何かを焼く香ばしい臭いがただよっていた。

存命の兄に電話して訊いてみると、彼はシャケ缶をあけて食べたという。あのときのことは思い出したくない、いやなことばかりだった、もう忘れたいんだ、と言った。兄は当時16歳、わたしの孫息子の年齢だった。多感なときに火叩きを持って火の粉を払い落そうとまでしていたのだ。そのあとも学徒動員に出なければならなかった。おなかがすいているだけの、7歳のほうがよほど気楽だったのである。

 早速その晩寝るところが必要だった。野宿しないですむようにと、父が代々木駅に近い焼け残った家屋の一間を探してきてくれた。八畳の部屋に六人が寝ようとしていたら、そこに叔母の一家まで転がりこんできたので、押し入れも使ってぎゅうぎゅう詰めの雑魚寝をした。

 父はいまのわたしの息子ぐらいの年齢、五十過ぎだったのだと思うのだが、すでに次にすべきことを、果たしていた。尾山台というところに、一軒家を探してきたのだ。疎開しているひとが、帰ってくるまでと言う約束で、住むことになった。もう空襲警報におびえる日はなかった。わたしたちはそこで、終戦を迎えた。

 祖母は度重なる引っ越しですっかり弱っていた。それでも、兄が学徒動員から戻ってきたとき、二階から、倒れ込むように降りてきて「昭ちゃん!」と叫んですがりついたのだ。あのときの祖母は現在の私の年齢である。 

 陽射しのきつい、あの8月15日、大人たちはみな正座し、ラジオから聞こえてくる、難解なボソボソ声に反応して、うなだれ、涙を流していた。

 庭にはサツマイモが一面植わっていてその茎をきざんで、雑炊などに入れて食べた。その区域は戦災に遭わず、焼け残ったところだった。近所づきあいが始まると、わたしたちは「焼け出された方」と呼ばれ、ご飯茶碗やら、お皿やら、生活に必要な雑貨類など、恵んでもらった。わたしたちは、気の毒な、可哀そうなひとたち、と思われているということに、なんとなく居心地の悪さを感じることも多かった。

 学校は始まっていたが、教科書とは名ばかり、トイレットペーパーみたいな薄さの紙に印刷されたものが配られたものの、勉強をしたという記憶がはっきりしない。友だちはすぐにできた。いじめもなかった。尾山町という多摩川に近い屋敷町に住んでいる同級生の家に招ばれたときは、その家の豪華な家具や調度に目を見張るばかりだった。

 進駐軍のジープがよく来るようになっていた。初めはおっかなびっくりだったが、兵隊たちは笑顔で、これまで食べたことがないようなチョコレートやチューインガムを投げたり、渡したりしてくれるので、子供たちは歓声を上げて、追いかけるようになった。

 学校の授業の記憶はほとんどない。楽しみは、お弁当を持って、多摩川の土手まで行って、そこで景色を眺めながら食べる時間だった。人家も少なく川のほとりは、樹木も多く、子供たちが走り回って好きな遊びに興ずるには絶好の場所だった。

 生活にまた変化が起きた。家の持ち主が疎開から戻ってきたのだ。父はまた次の家を探してきてくれた。世田谷の三軒茶屋の奥、太子堂というところの、庭付きの一軒家、ここは借家として住みはじめたのだが、結局、父が銀行を退職するときに買い取り、わたしは結婚するまで、ずっと住むことになった。

 日本という国が戦いに敗れ、国を再建しなおして、落ち着くまでの大変なときに、父は住むところを次々と探してくれた。そのことを、よくぞ、よくぞと、今になって感謝する気持ちでいっぱいになるのに、父の生存中にどうしてそれを言えなかったのかという、悔いに苛まれる。

 夏は暑さに弱いわたしにとって、つらい季節である。外に出ると燃えるような気さえする盛夏の真っただ中の八月15日、大人たちが泣いていた日から五十五年後、娘は出産予定日に産気づき初孫が生まれた。だが、赤ん坊は三日後に発熱して救急車で大病院に運ばれ、不安の一か月を過ごした。その三年後の同じ日、認知症で数年を兄の家で過ごしていた母が亡くなり、かけつけたときは、私だけが泣いていた。

八月十五日は終戦記念日でもあり、孫息子の誕生日でもあり、実母の命日でもある。

(十年以上まえに書いたものを、土台にしました)

 

 

              

 

2021年8月13日 (金)

手紙の行方は?

郵便局の話である。小さな支局であるが、親切で気が利くいう評判のところだった。ベテランさん、と我が家では名付けていた女性の局長さんが退職され、郵政民営化となってから、どうも様子が変わってきた。

現在たったの三人しか局員はおらず、わたしはお金をおろしにいくぐらいの用事ばかりなので、そのとき見回すと、いつもガラガラ、ひまそうなのだ。

アメリカの友人から哀しい知らせが来た。相思相愛のご夫婦で評判だった奥さんからで、ご主人が亡くなったという知らせであった。去年のクリスマスカードには二人でリタイアーしたら入る家を建てていると、建築中の家の写真入りのカードをもらったのだが、ご主人は持病があって、お仕事中にその発作が起き、お医者さまの手当が間に合わなかったのだという。

彼女の手紙はめずらしく饒舌で、哀しみにあふれており、夜も眠れず、涙ばかり出てくる、という文章、my sweet husbandという言葉にさぞや、と思ってしまった。

でも慰めの手紙を書くのが大変、一大決心をして早起きし、頭の働きがもっとも冴えている早朝に、「英文手紙の書き方と文例集」という本を片手に、お悔やみの長い手紙を書いた。かつてエヴァンストンという中西部の街に住んでいたとき知り合った未亡人のレディーが詩をかくひとで、その文集がとってあったので、その中から、ベッドに入ってからご主人のことを想うという詩を見つけ出し、それをコピーして入れたので、かなり分厚い手紙となった。

郵便局に行って、お悔やみの手紙なので、そういう切手がほしいというと、ありません、というそっけない返事である。国内用でいいから、と言うと63円だから足りない、あと百六十円、ハンパな値段だけど、というので、多めでもいいからお花のを二枚と言ったら、ピンクのバラの小型の二枚を出してくれた。貼ってくださる?と頼むと、ご自分でどうぞ、と言われてしまったので、三枚並べたら、ちょっと窮屈な貼り方になってしまって、花の二枚が一ミリぐらい重なってしまった。

これ、ダメです。重なってはダメなので、はがします。と言われて、あとがなんだか封筒の紙がうすくなってみばがわるくなってしまった。それにおまけまでついた。この手紙、いつ届くがわかりませんよ、アメリカは書留も今はダメだから、どうなっちゃうかわからないんです。大層否定的なのである。

もうちょっと言い方があるんじゃないの?と思ったが、黙って帰った。せっかく心を込めて、一生懸命書いた手紙を受ける係がケンモホロロの待遇になってる、こういうご時世。日本の郵便局ってほんと、親切でやさしかったのに、こんなに変わってしまったいまのご時世、日々の暮らしに明るい話題がまったくなくなる、虚しさをかかえ、とぼとぼと家路をたどった。

 

 

2021年8月11日 (水)

『時の面影』から『ホワイト・クロウ、伝説のダンサー』へ

映画通の知人がこぞって絶賛している『時の面影』が見たくて、Netflixに登録した。

「イギリス映画&テレビ番組」のかなり奥のほうで見つけたが、今は「Netflix独占配信」のトップに鎮座している。注目度が上がったに違いない。

 

発掘とか古墳とか、およそ興味の対象ではなかったストーリーだが、出だしからすぐに目が吸い寄せられた。主人公のバジル・ブラウンに、である。見えない宝が埋まっている場所にするどい嗅覚を持つ彼、見覚えのある顔、こんな脇役系の名優いたかしら?最後まで思い出せないまま、感情を巧みに表す目の表情に惹きつけられた。この人物の功績が認められたのはかなり時を経てからだという、発掘に学者が入り込んでくる、イギリスの階級制度があらわになる場面での、バジルの感情をコントロールした表情が素晴らしい。登場するすべてのひとが英国の階級制度やそれにまつわる問題点をいみじくも巧妙にあらわすキャスト編成も見事で、満足した。

執事のいる領主の屋敷だから、食事係もしっかりはしているのだろうが、夏に重苦しいシチューを供して、美しいヒロインを、胃の病に陥れたり、エピソードには現実性が加わって、宝がいつ掘り出されるかだけの、興味だけに引っ張られるわけではない巧みなショットに満ちあふれた名作なのである。

でもこの作品がこれほど、心に残るのはやはり、バジル・ブラウンを演じる俳優の演技力、最後のキャストの文字のトップ、えっつ、レイフ・ファインズだったの! 『イングリッシュ・ペイシェント』で登場した美男俳優。彼は悪役やら怪物やら、さまざまに変容して、『ホワイト・クロウ、伝説のダンサー』で頭髪のうすくなった今の彼が、バレエの教師役で登場し、しかもこの映画の監督であったことを知ったあの驚き。Img_2857

この映画を途中からしか観ていないことを思い出して、急に観たくなった。幸いなことにYouTubeで無料配信していた。

伝説のダンサー・ルドルフ・ヌレエフがテーマの作品。恵まれぬ幼少期から、トップダンサーとなって、パリ公演に遠征したとき、そのロシアの寒村での貧しい暮らしから、ダンサーとしてどうあるべきかにもがき苦しむ自国での苦悩、そしてさらにバレエの完成度に挑戦する彼の今を巧みにフラッシュバックさせ、香気をただよわせるほどの表現の美を見せてくれる。最後の亡命が可能になるか否かのクライマックスの場面は息もつかせぬ興奮を呼ぶ。後援者の富豪令嬢のクララ・サンも美しく、オーディションの覇者、ヌレエフそっくりのダンサーも完璧である。Img_2860 ヌレエフImg_2859 ホワイト・クロウ

 

滅多とない上質映画の二本立てを観て、興奮さめやらぬ一日となった。

 

 

 

 

2021年8月 9日 (月)

捨てないでよかった…

今の時期、食料品の買い物に行くことだけが唯一の外出だったりするから、せめて、そのときは何の不安もなく、安定した気分で目的を果たしたい。

瓶や缶に入れられたもの、重い野菜類、粉や砂糖、掃除の洗剤などが加わっても、気にならない収納が可能な用具、それはやはり買い物カートだ、とつくづく思うようになった。

移動スーパーが来るようになって、重いもののいくつかは、解決したのだが、砂糖や塩など、こだわると、思い通りのものがないことが多く、別途補給が必要になったりすることもあり、カート購入を急ぎたかった。

 

東急ハンズや、自由が丘でずいぶんカートは目にした。ハンズにあったものは、黒ばかり、自由が丘のスイニーというメーカーは四輪で動きがなめらか、それはいいのだが、形が箱型のスーツケースみたいなのが気に入らない。値段20000円代と、予算過剰。これ、といったものはなかなか見つからない。

 

夫の部屋に十年以上も敷いてあった六畳敷きの絨毯があまりにも古くなって、ダニでも住んでいたら、面倒なのではがすことにした。粗大ごみに出すので、ほかにも処分するものをと、納戸を探していたら、以前イタリア旅行の時に使っていた、機内持ち込みのバッグが目についた。引っ張り出してみると、これが買い物カートにピッタリだと思えてきた。ファスナー付き大ポケット二つがついた、四輪のカート。早速これを試用、近所に買い出しにいく。コンビニで飲み物を買い、自然食品店で全粒粉パン、冷凍ひき肉、パン、果物ジュース二瓶、手作り野菜を売っている苗店で、ジャガイモ、ピーマン、パプリカ、トマトを購入、そこの奥さんが作っているクッキーも。かなりなカサと重さだが、バッグはまだ余裕しかも動きが実にいい、アスファルトの上も音も小さくスイスイ動く。Kimg0318

ローマからオルヴィエートに直行したときこれを持って列車に乗り、ケーブルカーでオルヴィエートの街に上がり迎えの車に乗ったのだった。

懐かしいバッグが健在でこれほどに役立つのがより気持ちをウキウキさせてくれる、思わぬ嬉しい発見だった。

 

 

2021年8月 5日 (木)

尾籠な病

恐れていたことではあったが、都内の病院の受け入れ状況は困難を極めてきている。今病気になったら、悲惨な結果となる。元気でいなければならない。

そんなとき、思っても見ないことが起きた。

 

あの婦人泌尿器科の診察のあと、三日目に夫の検診につきそって近くのかかりつけ内科に行ったとき、念のために自分の尿検査をしてもらったら、思いがけず、かなりの悪い数字が出たのである。クラビットはあります、と言ったら、もっと強い薬でなければこの菌は死なない、と珍しく強い口調で医師が言った。元町のクリニックに行った経過も報告した上なのだが、それはそれで、診療を尊重したものの、この事態は深刻だという、意思が伝わった。

処方された薬はパクタという、飲み込むのがやっと、というほどの大きな錠剤で、しかもそれを一日二錠ずつ、二度ものまねばならない。薬はのむのが苦手、こんな苦しそうなものとても無理、と思い、ともかく、元町のクリニックに電話してみた。折り返し、あのときの医師が電話をしてきてくれて、パクタではなく、クラビットを飲み続けることで大丈夫、と断言し、追加を宅急便で送ってくれることになった。

まずは、安心したのだが、どうも、下半身の具合がよくない。いつも何か重苦しく、熱をおびているような不快感を感じる。トイレも近い、残尿感も大きい。

排泄に関する不都合は、毎日数度以上のことだから、切実である。

 

今年になってから、何度も思いがけない身体の不調を経験した。初めてやがて命が終わるときのことを、身近に感じた。

 

普通ならクラビッドを三日も服用すれば、症状は全くなくなるのに、そうならない苛立ちを抱えつつ、先週の土曜日、もう一度内科に出かけて尿検査をしてもらった。結果は×

先生の指示を守らずクラビットなんかに頼っていたのに、医師は、婦人泌尿器科を尊重する気持ちはわかると言ってくれて、でもあの巨大錠剤をしっかり四日分のむように、命じた。近頃の菌はすごく強くなっているということも知らされた。

もう、迷わなかった。言われたとおりにしよう。錠剤を服用しながら、身体のあの部分に全神経を集中していた。元町クリニックの医師からの電話はもうなかった。超多忙の医師なのである。

身体をやすめることを十分にしなければならないので、買い物にも出ず、夫が引き受けてくれたりもした。

首うなだれているわたしに、夫が言った。83という年齢はいろいろ悪いところが出てくる、85になると、それも、それなりにおさまる。

じゃ、あなたの89歳は?と訊くと、もうヨレヨレさ、とオバケの恰好をしてみせて笑った。

人生の先輩がまだそばにいてくれるのを感謝しなければ、と思った。

 

服用後、四日目、不思議なくらい、不快感が去って、いつものわたしになっていた。

 

 

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