『なぜ、生きているのかと考えてみるのが今かもしれない』を読む 2.
人間七十年か八十年生きてきて、ようやく人生とはこういうものなんだと悟るようなことを、この作家はもう六十年で体得し、それを著書の中で堂々と述べる、ということをしている。それはきっと、シングルファーザーとして過ごした数年の孤独感のなかで、勝ち得た実感の集積があるからなのに違いない。海外で長期間一人の生活を経験すると、自分がよりはっきり見えてくる。外国人の中にいる日本人としての自分がどうであるか、それはまた人間とは、生きている意味は?ということにつながってくる。
彼はセーヌ川の川辺を散策し、癒されることを悟る。
川の流れは永遠だけれども、川面は瞬間瞬間で入れ替わっている。流れは時に優しく、時に非情だと、彼は語る。プライベートでは自分を他者に合わせないようにするのがいい、
人付き合いに疲れたとき、川面を見つけ、流すことを試みる。「流す」という概念は人生に疲れないための鉄則、流れることを由として、心をそらさず、気にせず、無理をせず、流しつつ、流されつつ、人は流れていくのがいい、という表現に魅了された。
十年間、イタリアにホームステイしながら過ごしたとき、川のある街が好きだった。アルノ川のあるフィレンツェ、ポー川のあるトリノ、ステイ先で思わぬトラブルに遭ったとき、わたしは川辺によく行った。そして癒されたのはそのせいだったのか、と今になって思った。
現在、徒歩距離に多摩川があるのに、ほとんど見にいかない。今こそ、川の流れを見にいくときではないか、と思ったりもした。(続く)
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