『椿の庭』を観る
めずらしく娘が電話してきた。とてもいい映画を観て感動したのだそうだ。
タイトルは「椿の庭」、上映されているのは知っていたが、題名からして内容が想像でき、関心はもてないでいた。
富司純子の美しさにしびれたのだという。わたしはにわかに観にいきたくなった。このところ疎遠ぎみの娘と共通の話題を感情移入しながら語りたくなったからだ。
ウイークデイのチネスイッチ銀座は空いていた。ここに来るのは数年ぶりで、和光の裏という場所はおぼえていたが、うっかり階段を降りてしまって、しまった、と思った。エレベーターはあったのだろうか。あまりにも久しぶりなので、チケットは予約でスマホのバーコードをかざすだけで入るということをしているのに、ひざ痛を起こさぬように気をつけるのを忘れていた。
満開の藤の花と、朱色の金魚の泳ぎと、ピアノの音色で始まる冒頭、セリフが極端にすくなく、映像の美を強調しているのがわかる。海を臨む広い庭つきの日本家屋に住む老婦人と孫娘の話。老婦人の夫君の四十九日の法要の画面が長々とうつされる。小津映画の一部のようだ。
一本の電話で、相続税の支払いがむずかしくなっていて、この家を手放さなくてはならないときが迫っていることが伝わってくる。
季節のうつろいと共に家と庭との別れが現実味をおびてきて、老婦人の命を脅かしていくのが伝わってくる。彼女が身辺整理を始めて、小さな包みと手紙とが孫娘に渡るが、手紙を読む声を聴かされるのでもなく、包の中身も知らされず、自然光を重んじたというこの映画の主張の強さで、わからずじまい。このことを惜しむ声はほかのレビューでも聞かれた。
駆け落ちして外国で出産した娘、その突然の死で、日本語がおぼつかない孫娘を引き取るという事情が短くて少ない会話の中から明らかになってくる。
孫娘との関係はおだやかそのものに思われたのに、落ち葉の掃除を祖母が苦痛になって、頼んだ時に拒否され、厳しい現実がわずかに覗かれた場面がある。
こういう場面を外国映画で観た記憶がふいによみがえった。
イタリア文学のベストセラー「心のおもむくままに」を映画化がした作品の一場面だ
終始着物で通す,富士純子さんは神々しいまでに美しい。この映画の価値を高めた功労者である。
我が家の庭はないに等しく、家を囲む灌木と花をつける樹木に目をやり、ウッドデッキにあるコンテナの中の植物への水やりを欠かさぬという仕事だけだが、それでも花をつけなかった植物が一年ぶりに蕾をつけたり、枯れかけた苗が急に生気を帯びたり、植物から、命の不思議さを教えられることは多い。
15年抱えていた構想を映画化した脚本、撮影共にたずさわった監督上田義彦氏は高名なカメラマンで、桐島かれんさんのご主人、美しい日本家屋はご夫婦の葉山の別荘ということがネットからわかって、涙を流した感動が少し違ったものになっている今である。
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