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2018年9月に作成された記事

2018年9月29日 (土)

ヴェネチア異聞

読書家の友人K子さんからお借りした、内田洋子著『対岸のヴェネチア』。

もうイタリアが遠くなった身としては、読むのがシンドイかな、と思っていたのだが、きわだった文章表現の巧みさに惹きこまれ、一気に読み終えた。

二度しか行かなかったヴェネチア、最初は雨、二度目は炎天に祟られ、その場所の魅力は半減していて、たとえ今、どれほど歩いたとしてもビクともしない足を持っていたとて、再訪したいという気になれないわたしなのだが、「本島を南から見る位置にある離れ島のジュデッカ島」での庶民の暮らしは惹かれるものがあった。

わたしが20回を越すイタリアの旅で一番惹かれたのはひたむきに暮らす庶民の生活だったからだ。

内田さんの表現の中にも、「最初のうちは新旧が挑みあうような町の雰囲気に感嘆していたが…高尚で刺激的な非日常より、凡庸で何も起こらない毎日が恋しくなった」とか、「ヴェネチアにはたくさんの影がひそんでいる」とか、「過去が沈む重い風景」とかいう形容に、生活していくうちに感じとっていく、ネガティブな部分をにじませているのではないか、と思った。

須賀敦子さんの著作に『ヴェネチアにすみたい』というエッセイがある。「ヴェネチア人は、土地の最後のひと切れまで都市化しつくしていて、島に島ではないふりをさせていた…運河で縦横無尽に切り刻んでおいて、それを小さなかわいらしい橋でむすんで、端から端まで、船底についた貝がらのようにびっしり家を建てたりして、どうも遊びがきつい人たちのようにもみえた」何という描写、彼女にしか書けないヴェネチアではある。
でも彼女は本島からジュデッカの方を見て、アンドレア・パッラディーオが設計したレデントーレの教会が夜、照明のなかに浮かんでいるのをみていると、一生ヴェネチアに暮らしたくなる、と述べている。本島側から海を眺めてヴェネチアにこころを奪われている、というふうなのである。

須賀さんとは対照的に、本島に沿うように位置する島から、ヴェネチアを眺める庶民の生活をドキュメンタリー的に描写して、人間の生活を生き生きと描写する内田さんの著作はより現代的であり、感情移入的な好感を持たせるのではないか、と思われてくる。


2018年9月24日 (月)

仔猫シッター

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再びネコを飼うという決心がつきかねている私の危うさを見てとったのか、娘は兄妹ネコを二匹飼う決心をし、その環境を見事に整えた。二階建てでハンモックもついている大きなケージ、リビングのコーナーに天井まで届くキャットタワーがそびえている。
リビングダイニングなので、炊事の場所はシンクもガス台もふたができるようになっていて、驚いたことに、テレビやパソコンのコードにはすべてプラスチックのカバーがほどこされていた。
すでに三度シッターに出かけたのだが、、最初はパソコン台の下の狭い隙間に隠れていた二匹は今やダイニングの娘の椅子にのっかって肩寄せあって寝ている。じゃれあいながら、追っかけっこしながら、日に日に、元気に育っているようだ。
十畳ほどのリビングは結構、物であふれているのだけれど、危ないところは全くないワンダーランドで、いい環境をととのえたと思う。
シッターに行っても、私の仕事はない。二匹を孤独にさせまいという、こういう訪問者もいるよ、ということを知らしめる役目、もっぱら、豊富にととのえている、玩具でじゃらして、満足させている。

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ケージの中はトイレと噴水のように常に出ている水の入れ物と、餌の皿ですでに一杯。二匹はトイレも一度もしくじらず、爪とぎもちゃんと専用の板にするし、手がかからない。先回、めずらしく鳴き声がしたので、見たら、トイレに排便の場所が見つけにくい、といってクレイムしているらしかった。お利口チャンなのである。

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キャットタワーを巧みに出入りする二匹をカメラにおさめようと、何度も試みたが、その瞬間をとらえようとすると、手がふるえるのか、ピンボケばかり。
岩合さんの偉大さをあらためて実感した。

2018年9月21日 (金)

紫の贈りもの

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植えたおぼえはないのに、いつのまにか咲いてくれたこの紫の小花たち、コリウスとの配色もよく、プランターがにぎわった。
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伊豆の吉浦先生に頂いた苗、もう三年ちかく、花が開かなかったが、今年はどういうわけか、開花。
紫はわたしの一番好きな色、紫の花たちに癒されて、酷暑をのりきれることができたとも言えそうだ。

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とかく夏枯れのプランター花壇なのに、コリウスを増やし、ところどころ配色したせいで、思いがけず、美しいにぎわいをつくってくれた、わたしの小さなウッドデッキ。
毎日、何度目をやったことだろう。

2018年9月14日 (金)

ジューサー騒動

朝の生ジュースをかれこれ四十年ぐらい続けて飲んでいる。
リンゴ、キャベツ、ニンジン、仕上げにレモンを絞りいれる。
「お若い!」とか「お肌きれい!」とかお世辞まじりとしてもそういうコメントを沢山もらうのは、このジュース効果大、なのかもしれない。

このところ、十年以上使っているパナソニックのジューサーミキサーのフィルター部分が、損傷してきて、もう買い替えるときがきたように思った。

スムージーブームのせいか、なんでも液状にしてしまう、ミルサーなるものの、宣伝映像をテレビショッピングで観て、音は静かだし、コンパクトな形状、上から押すだけでできてしまうという部分に、魅せられ、ジュースは水を少々加えるというところが気にはなったが、愚かにも思い切って購入。

ところが実際使ってみたら、材料を入れてふたをし、逆さにしてセットするという、最後にふたをする部分をよほど強力にしないと中身がもれてしまうという問題点大を発見。手の力弱く、痛みを伴ったりしたら、毎日使うどころではなくなるではないか。

テレビの映像は材料を入れるところは映らず、ともかく上から軽く押して、たちまち液状の仕上がりを見せるばかりだったので、思い及ばなかったというわけである。

一度購入したら、返品できない、と小さく隅のほうに出ていたというのだが、「使ってみなければわからないじゃないの!!」と声を荒げて主張、「高齢者には肝心な部分を目にとまらないような示し方をするというのは、言語道断!!」製造元にも直接交渉することに成功。
ひきとってもらった。

ヤマダ電機店を再訪、最近のジューサーミキサーをあらためて点検、カスをとりのぞいたり、洗ったりするのはたやすくはなっているのだが、液体部分が出るところがいかにもせまく、デザインも洗練されていない。説明にあたった店員が情報をしっかり把握しているひとで、なんと、現在使っているジューサーの部品はまだとりよせできると、いうのである。機械の耐用年数が短くなる一方なのに、まだ部品があるということはこの製品、よほど、需要が多かったということを意味している。

機械が動くうちは、まだ使い続けようと、便利さ、容易さは二の次にして、もう少し現状維持で行くことに決めた。

2018年9月 9日 (日)

怒る自然

まさか、北海道をあれほどの地震が襲うとは思わなかった。

未明のできごとのせいで、ニュースが後れ、一昨日の朝日新聞の朝刊の見出しの大きさに衝撃を受けた。そして緑一面の風景が一夜にして、茶色化し、山肌があらわになり、スーツの男性が液状化した道路の水に胸までつかっている写真が、その恐ろしいまでの深刻さを物語る。ライフラインは復旧しつつあるといっても、まだ水道が出ないところや、在来線の不通の箇所や、道路が寸断されているために物流が停滞している深刻な状況は長引くのではないかと、気になる。

今年ほど、酷暑にあえぎながら、水害や、台風直撃や、そしてこの地震と、自然災害の恐ろしさにあえいだときは、八十年の人生をかえりみても、なかった。

なぜ、日本ばかりがこのような災害に見舞われるのだろうか。天災の罰が下るにふさわしい悪意に満ちた国がほかにあるじゃないか、と言いたくなる。

なかでも恐ろしかったのは関西国際空港の8000人と言われる人々が閉じ込められた状況だ。空港が孤立してしまうなんて、前代未聞の事態である。
それでなくても旅行者は空港で荷物をあずけ、旅立つときは、翼をもぎとられたように不安定な気分なのに、いつ復旧するかわからない、不安をかかえつつの、閉塞感に苛まれる無防備な状況、それは、外国の空港で、早く機上のひとになりたいとあせった旅行者のときの自分を思い出すにつけても、感情移入できる。

目に見えない、恐ろしい力が怒りをぶちまけている…英語でそういう自然を支配する力をなんと言ったっけ、とうすくなった記憶力をふるいおこそうと必死になり、ようやく昨日になってそう、mother natureだ、と思いだした。

2018年9月 4日 (火)

ネコを飼うか、飼わないか…

ネコを飼わないかという話がきている。
そもそもは二人の子供たちが独立して、一人住まいとなった娘がネコを飼う決心をしたと言っていたのだが、彼女の友人が仔猫三匹の飼い主を探しているひとがいるという情報をくれたからである。スマホからの写真がメール転送されてきた。それは二匹のものだけで、グレイと白の混じりの一匹と、キジトラと白の混じりの一匹、二匹ともなかなかの器量よしだ。Img_9741

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ともかく一度見にいってみよう、ということになって、娘の運転で辻堂の奥というその家に出かけた。カーナビで藤沢近辺まではスイスイと到達したのだが、ひとつ大通りをはずれてから、道を誤ったらしく、かなり迂回して、娘はついにはスマホを片手にグーグル案内を頼りながら、町中をはずれた路地の奥のその家に着くのに二時間を要した。

かなり大きな二階家で、玄関までいろいろな花が乱雑に植わっている。ドアを開けてびっくりした。大きいケージが置かれていて、中に三匹の仔猫がいる。玄関まわりには足の踏み場がないほど、ネコ飼料、砂などいろいろなものが積んであって、その家が飼っているネコ二匹も出てきた。迎えてくれたのは七十代初めぐらいとみえる奥さん、同年配らしいご主人もあらわれた。
仔猫は写真通りの可愛さで、あとの一匹は黒白の混じりで、口のあたりに黒い筋がいくつかあるので、見た目損をしているのが、ちょっと可哀そう。

この子猫たちは外ネコの子どもで、この家の奥さんが哀れになって、こうして飼い主を探すことをしているらしい。しばらくして、わたしは二時間余のドライブのあと、どうしてもトイレに行きたくなり、拝借したのだが、トイレにおむつらしきものが積んであって、もしやご主人の介護もあるのではないか、と思った。そうだとして、それでも仔猫を世話しようとしている、この家の奥さんの優しさを想った。

二匹をもらうことを約束して帰途についたが、わたしは、生後二か月のネコをまた育てて飼う決心がつきかねている。自分の身体の不安が増すこれから、仔猫の世話ができるだろうか。何よりも夫が不賛成らしさを表明しているので、迷いが増す。以前は「ネコ飼おうよ」と積極的だった息子も、次の仕事がきまらない今、ネコへの執着心が弱まっていそうなのも気になる。そういう彼にこそ、癒しのネコ必要だ、と娘は主張するのだが…

目下、同い年で、やはり定年寸前の一人息子と九十歳の夫との三人暮らしで、しかもかなりヤンチャなネコを飼っている友人の意見をもらおうとしているのだが…

とりあえずはネコ二匹を娘に飼ってもらって、しばらくしてから、引き取ることにしたいという交渉をとりつけた。というのも、迷いネコ、十年間飼い主となり、最近一戸建てからマンションにすさまじく大変な引越をすませた、ブリッジパートナーに、ネコはね、兄弟の二匹を飼いはじめると、それは楽よ、というアドヴァイスをもらったばかりだからである。


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