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2017年11月 3日 (金)

『ばぁばの出番』

孫たちが独立を果たしたこの機会に、二人が幼かったころのことを思い出しておきたいと思いました。
十年まえ、まだわたくしが『婦人文芸』という同人誌に所属していたときに書いたもの、少し長いのですが、ここに載せることにいたします。

            
                            ばぁばの出番   
 
  命の教え  
       
 初孫は八月十五日の終戦記念日に誕生した。両親が音楽関係の仕事をしていたので、〈平和を奏でる〉ことを願い、奏平と名付けられた。
 暑い日の出産だった。微弱陣痛が一昼夜も続き、ついには陣痛促進剤が使われたので、娘の苦痛の叫びは尋常ではなく、産声を聞いたときの安堵はこの上ないものであった。
 ところが、生後三日目異変が知らされた。新生児黄疸の熱が下がらないのだという。大学病院に運ばなくてはならなくなり、産婦は安静にしていなければならないので、救急車には私が付き添うことになった。 
 看護婦に抱かれた奏平は泣き声もたてず、こけし人形のように穏やかな顔をしていた。助かるのだろうか? 新生児を外に連れ出して大丈夫なのだろうか? 私は神に祈った。「私の命を縮めてでも、どうかこの子を生きながらえさせてください」
 産婦はほどなく退院はしたが、産後の疲れをやすめるひまもなく、あふれでてくる母乳を搾って、病院に届ける配達人にさせられた。三時間おきに、三十分かけて搾り、冷凍し、一日分をアイスボックスに入れ、毎日車で十五分ほどの病院へ運ぶ。それが、一週間続いた。
 夜中に目をさまして、娘の部屋をのぞくと、肩を丸めた彼女が懸命に搾乳器で母乳を搾っている。代わろうにも代わってやれないもどかしさと憐憫のため息をおしころし、ベッドに戻るのだった。
 長い七日間が過ぎ、待ちに待った退院のとき、と喜んだのも束の間、奏平は再び発熱し、一週間の入院延長を言いわたされてしまった。落胆に疲労が加わり、吸う主のない乳房はかたく腫れあがって化膿し、乳腺炎を起こしていた。医者は化膿止めと抗生物質のクスリをくれただけで、大切な母乳の保存には無力であった。これではいけない、このままにしておくわけにはいかない、ふいに脳裏に記憶の断片がよみがえった。痛くない乳房マッサージを発案した助産婦さんがいるというニュース、それを図書館で目にしたことを思い出したのだ。
 住所をつきとめ、御茶ノ水駅の近くのオッパイ・ルームと称するその場所に、高熱で真っ赤な顔をした娘を連れていった。きびきびした助産婦さんが、娘をやさしくベッドにみちびき、乳房に蒸しタオルをそっとかぶせる。やがて指がなだめるように何度か円をえがいてから、まるで生き物のように踊り始めた。
 一時間ほどで戻ってきた娘の顔はやすらかで、赤みもとれており、三十九度あった熱は三十七度に下がっていた。マッサージは痛みがまったくなく、きわめて心地よかったのだという。
 近頃の若い女性の身体はすでに栄養たっぷりなので、その上カロリーをとりすぎると、乳質はにごり、赤ん坊はアトピーに、母親は乳腺炎の再発をまねくことになりかねないと知らされた。
 以後定期的なマッサージを受けながら、カロリーをコントロールした菜食中心の食生活を実行し、奏平の退院の日には最上質の母乳を準備することができた。
 新しい命はファーストフードや外食の多かった母親の食生活を変え、母子ともどもこの上なく健康な体をつくることを教えた、そう思われてならない。

その日

日めくりカレンダーの日付がその日のままになっている。
その夜九時ごろ、電話が鳴ったのだ。「隆志さんが倒れたの。いま救急車を呼んだんだけど…」娘の切迫した声だった。
コートの袖に手を通すのももどかしく、夫と車に乗った。
「脳出血かしら? それとも心臓…?」
「若いんだから手術すれば助かるさ」
それ以上の会話は交わさなかった。
人気(ひとけ)のない住宅地の闇に点滅する救急車の赤いライトが不安を一層かきたてる。倒れた原因は心臓だと知らされた。夫は娘につきそって車に乗っていき、私と孫二人が取り残された。
「パパね、キイキ悪いんだって。かわいそうにねぇ」三歳の孫息子は心配顔でそう言うが、一歳の孫娘はふいにあらわれたばぁばを見て満面の笑顔なのがつらい。ともかくパジャマ姿のふたりを一刻も早く寝かしつけねば。孫娘のほうはお気に入りのタオルを顔に当てるとすぐ寝てくれた。
声が上ずりそうになるのをおさえ、孫息子のために『グリとグラ』を読む。
「奏くん、パパがよくなるように神さまにお祈りしようね」小さな手を組ませながら言った。
「うん、ボクお祈りする」
 子供たちの寝息をたしかめてから、居間のソファーに横になった。疲れているはずなのに、目が冴えきっている。娘の結婚生活四年間はまことにめまぐるしかった。式をあげたその年に長男が生まれ、一年半ほどしてまた身ごもり、その間に二度も引越しをして、この年、家まで建ててしまった。十五歳年上で音響の仕事をしている婿は旅が多く、ゆったりと休んでいる姿を見たことがない。私は内心不安だったのだ。
午前一時にようやく電話が鳴った。
「心筋梗塞だ。ダメだったよ」夫の沈んだ声だった。
 〈運命が牙をむいておそいかかってくる〉自分が以前翻訳した小説の一文が不意によみがえった。

 通夜と告別式には幼い子供たちを出席させるにしのびないということで、私が自宅で世話をすることになった。丸一日、家にいては時間をもてあましてしまうので、近くの児童館に連れ出した。
 若いママたちが子供をベビーカーや自転車にのせて、次次にやってくる。オルガンが鳴り体操が始まっても孫たちは仲間に入ろうとしない。子供につきそって歌い、身体を動かしているママたちがみんな、元気で頼もしい夫を持った幸せな人たちに見える。私はそっと輪から抜けだし、孫たちを図書室に連れていった。
 しばらくしてまた体操の部屋に戻ろうとしたのだが、奏平が、イヤだ、と言う。
 「ボクきらいなの」ここニ、三日この言葉の連発なのだ。〈きらい〉は拒否、不愉快、哀しみの全てをあらわしているのだろうか。
 告別式から戻った娘は、大勢の友人が焼香にきてくれて、涙を流してくれたと報告した。中学から大学を通しての友人、サークルの仲間、仕事の同僚、全ての友人、知人に躊躇することなく訃報を知らせている。
 私はむこう一週間にしていた約束の相手だけに断るわけを話した。しかも他の人にはしゃべらないで、と頼んでしまった。突然襲った悲劇を、これからの人生のハンディのように感じてしまっている。
 そんな本音の裏側で別の声がささやく。〈これは神が与えた試練なのだ。どう乗りこえるか人生の正念場だぞ〉と。娘親子のために自分の生活を犠牲にして尽くすべきなのか? それほどには強くなれない自分を知っている。
 これまでの私の人生は、子供たちの入試の失敗や、親の病気といった程度の困難にはぶつかってきたが、おしなべて平穏だったのだ。婿の夭折という爆弾のような悲劇に遭遇し、哀しみより先に不安におびえ、そのくせ妙に冷静になって、行く末を考えている自分をもてあましていた。
 いまの状況の捉え方を知りたい。不幸の乗り越え方のよりどころがほしい。そういうことが書かれている本はないのか。図書館中を探しまわったが、そのような書物は見つからなかった。
 そうだ、アメリカには〈セルフ・ヘルプ〉という実用書の分野がある。アメリカの友人に頼んでみよう。ヘレンがいい。彼女なら今の状況を理解してくれるだろう。二十数年前夫のアメリカ駐在に伴い、四年間イリノイ州のエヴァンストンで暮したとき、娘が幼稚園で仲良しになったエリーサのママ、ヘレン。知り合ってまもなく、私宛の封筒に戦時中の大統領トルーマンの切手を貼ってしまったと詫びたヘレン。アメリカ人にはめずらしく、しゃべるよりも、書くことに自分の気持ちを語るひとで、お互いの息子と娘が同年齢だったこともあり、帰国後も文通しあって、親しさを保ってきた。娘は成人してから、夏の一ヶ月を単身、彼女の家で過ごしたこともある。
今の私のふがいなさ、娘を慰める言葉に窮しているこの状況を書き表すには、あいまいな言い回しの少ない英語という言語がまさにふさわしかった。依頼の手紙を出すと、ほどなく「あなたの慰め方を教えてくれて、ありがとう」という書き出しの返事と共に、一冊の本が送られてきた。
 『愛するひとを失った哀しみをどう乗り越えるか』と題するその本は、〈失ったことを理解する〉〈生き抜く〉、〈癒されていく〉、〈成長していく〉の四つの段階に組まれ、わかりやすい言葉で一ページずつ、九十四章にまで順を追って、悲しみをのりこえていくプロセスを記している。
 驚いたことに、心理学者と精神分析医と詩人との共著なのだった。心の動きを正確にとらえながら、大丈夫だ、と励まし、納得させつつ、右ページに美しい愛の詩を掲げる。その構成は心にくいまでに読む者の心をとらえる。
 「一大変化が起こったのだから、それに付随する変化を起こさないように/忙しくしていられるならば、癒されているのである/成長していくものをそばにおくこと。新しい観葉植物、ペットなど/電話を利用して、できるだけ人と話すこと/イライラしたら楽器にぶつけるのもよい…」などなど。日々、日常をこなしていく中で哀しみや苦しみを消化させていくやり方を教えている。
 娘にこの本を渡したのだが、音楽を教える仕事と、幼稚園の入園準備で目が回るように忙しく、読みとおせなかったらしい。つまり忙しくしていられたのだから、癒されていたのである。海を隔てた友人が私たち母娘のことをおもい、これほどの良書を贈ってくれたという事実も励みになって、起きたことを受け止め、明日に向かっていく勇気が出せるようになっていた。


孫たちとの日々

 一歳の孫娘は父親の顔さえ覚えておらず、さしあたって成長に影響はみられなかったが、三歳の孫息子のほうにはいろいろトラブルが起きていた。まず排便の失敗。幼稚園に入るまえなのに自分からなかなか教えようとしない。ママは気が気ではなく、しょっちゅうパンツの中をのぞいている。
 「奏クン、ウンチおしえてね、おねがいだから」
 「ウン、おしえる」返事はいいのだが、当てにはならない。
 当時八十七歳の実母は兄のところで自宅介護されていた。歩行が困難なので、トイレにも付き添いが必要だった。
 「おばあちゃまったら、ちっとも教えてくれないのよ。もう三日も便秘してるのに」
久しぶりに訪ねた私に、義姉がしきりにうったえる。
 「お母さま、したくなったら教えなくちゃダメよ」
 「うん、そうだねえ」返事はまともだが当てにはならない。
 実母と孫息子とはちょうど上りと下りの電車がすれちがう接点のような状況らしかった。ひとが生まれてからどのように老いていくかを両面からつぶさに見せられているという実感があった。

 幼稚園が始まってからは、自分の気に入らないことが起きたり、思うように作業ができなかったりすると、感情をたかぶらせたり、部屋を出ていったりすることが多くなった。トランプ遊びをしていても自分が負けるとカードを叩きつけたりする。忘れ物も多いと聞く。娘があまり困っているようなので、区の子育て相談に電話をかけた。事情を話すと、穏やかな声の女性が言った。
 「そういうことがあとになって起こるより、今起きてよかったんですよ。夜寝るとき、なるべくお母さんが一緒に寝て、本を読んだり、お話をしたりしてください。お母さんが疲れているなら、お子さんに読ませてみるのもいいでしょう」
私はひととき心がやすまった。

 娘は小学生や音楽学校を受験する学生たちにソルフェージュや楽典を教える仕事をしており、それが毎週土曜日だったので、孫たちは土曜の朝から我が家にきて泊まり、ママが日曜の夕方迎えにきて夕食を共にして帰るというのが決まりになった。孫たちが五歳、三歳になるころまで、どのように長時間を楽しくすごさせるかが、私たち祖父母の課題であった。歩行がむずかしくなった義母の自宅介護もあって、祖父母二人で出かけるのがむずかしいときもあった。
プールに泳ぎにいくのはもっぱら私の仕事だった。けれども子供プールに入れておけば楽というわけにはいかなかった。大きいプールで泳ぎたいといって騒ぐ奏平をなだめながら、孫娘には浮き輪につかまらせ、すぐ戻ってくるからね、と言いきかせて、奏平の泳ぐのを助けるのだが、ばぁばーっ! と叫んで出てきてしまう孫娘のところに駆け寄らなければならず、二つ身体があればと切実に思ったこともしばしばだった。

 渋谷にある東京都児童館や、青山の子供の城にも何度足を運んだことか。ある日義母の排便の始末が長引き、出発が後れ、浮かない気分のまま、二人を子供の城に連れていくことにした。急行は土曜とあって混んでいて、二人の子供は押しつぶされそうになり、笑顔が消えていた。渋谷駅で、奏平が児童館の方がいいと言い出す。妹はイヤッ、と言ってきかない。二人の言い争いが終わらないので、ジャンケンで決めることにした。運悪く彼が負けて、地べたに寝転んで大声をあげる。しまいにはボクひとりで行くといってさっさと階段のほうに消えてしまった。戻ってくるだろうとしばらく待っていたのだが、姿を見せないので、孫娘の手を引きながら、児童館に向かった。門衛のおじいさんに訊いたのだが、そういう子は見かけなかったと言われ、呼び出しのアナウンスを頼み、おじいさんに孫娘をみていてもらって、五階までくまなく探したのだが、見つからない。「ぼくなんか死ねばいいんでしょう」などと言うこともあったので、不安は増すばかりだった。ついに自宅に電話し、夫にきてもらうことにして待っていたとき、私を呼び出すアナウンスが聞こえた。東急の渋谷駅からで、奏平を保護しているという。もう少し駅で待っていればよかったのか。
 まったく何という一日だろう。ともかく無事でよかった! 叱りたくなるのをおさえ、駅の事務所の椅子に神妙な顔で坐っている奏平に、歩みよった。
「奏クン、あなたも一生懸命探したかも知れないけど、ばぁばも児童館まで行って、一生懸命探したんだよ。でも困って駅員さんのところに行って話したのはえらかった。ほめてあげる。これからはこんなことがないようにしようね」

 駒沢公園には数えきれないぐらい通った。石造の動物がおいてある、ブタ公園、ウマ公園、リス公園、どこも孫たちは大好きで、いつまでいても飽きるということがないくらいだった。
孫たちが十歳、八歳になった二月のある日、久しぶりに、夫も一緒にブタ公園に出かけた。大小四体の目を閉じた石のブタがうずくまっていて、その後ろにトンネルをくりぬいた小山がある。その山がきょうはなんだか低く見えた。二人が成長したせいなのだろうか。二人は早速その山によじ登り、真ん中の穴から、トンネルに降りたち、おっかけっこをしたり、滑り台を競争でかけおりたり、すごいスピードなのに危なげなく遊びはじめた。
「手がかからなくなったよ」ため息と共に夫が言った。ひとりで幼い二人を連れて、片時も目をはなすことなく、世話をしたこともあったのだ。
二人乗りの自転車に私と奏平が乗って公園を半周したのだが、彼の方が勢いよくこぐので、バランスをくずし、道路わきに座礁してしまった。
「ばぁばったら、まったく…」と笑いながら言ってうしろを向き「すみません。お先に行ってください」と後車のひとに挨拶したのには驚いた。
夜は鍋料理。奏平は食べたあと、自分の皿にコップをのせて台所に運ぶ途中でコップを落とし割ってしまった。「ごめんなさい!」と間髪入れずに言う。
「すぐあやまってえらかったね」と私が言うと、孫娘が言った。
「ばぁばがせっかく買ってくれたコップなのに」
妹に言い返そうとしない奏平に、また驚いていた。

中学二年になった奏平は私の背をようやく越した。最近はおだやかになってあまりキレることがない。先日娘の家に留守番に行ったとき、小学校の卒業記念文集を見つけた。六年間で一番印象に残ったのは…という書き出しが圧倒的に多い中で、奏平の文は違っていた。
「石が深沢に転がっていた…」で始まるその内容は、自分たちが一年のとき、石ころのようにちっぽけな存在だったが、「力を合わせる」ことを重ねて、岩石のような塊となって何かを動かすことができるようになった、というものだった。それを学年ごとの運動会を例に出して、チームワークがどのようにしてできたかを具体的に述べている。
運動会は父親が華やかに登場する場である。応援する父親、ボランティアで働く父親、父兄参加の競技で張り切る父親。どんな思いで見ているかということばかりを想像していたのに、こんなことを考えるようになっていたとは。
クラスのランキング五項目に彼の名があった。〈キャラがこい人〉四位,〈早く結婚しそうな人〉四位、〈将来有名になりそうな人〉二位、〈ありえないことをし出す人〉二位、〈長生きしそうな人〉四位。
ばぁばの出番は確実に減りつつある。救急車の中で神に祈ったことがほんとになるなら、私の寿命は長くはないかもしれないが、奏平がほんとに早く結婚して長生きするのなら、それを見届けたいという欲が出ている。


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コメント

おはようございます。
朝から心を熱くして、胸を詰まらせながら読んでいます。
青いドレスの美しいお孫さんの後ろにこのような大変な時があったとは・・・。
お孫さんも夭折されたお父様と音楽を通してつながっているのですね~。
「命の教え」では似たような経験をしているので、身につまされました。
どんなに大変な状況でも、揺るがない深い愛情があれば乗り切れるのだと、
そしてばぁばさまはそれをやり遂げられたのだと深く感動して、心を強くさせて
いただきました。ここに書いてくださって本当に有難うございました。

それから、ばぁば様の「ホームステイのイタリア」について書いた私のブログに
コメントがあり、URLを知りたいとのことでした。
いろいろ考えて、本文中の「ばぁばは語る」の文字部分で、こちらのブログと
リンクさせてもらいました。勝手ながらすみません。
しかし、この本を読まれてとても感銘を受けられている大学生の気持ちを思うと
そうせざるを得ませんでした。

ちゃぐままさん
あなたのコメントにどれほど励まされたことでしょう。実はこれを載せたあとになって、こんなに詳しい過去の記述をブログの世界にもちこんでしまってよかったのだろうかと、怖くなってしまったり、悔やんだり、していたのです。

ありがとうございました。わたしにとっては、いまの現実は過去の事実あってこそ、ということを証明したかったのですが、それをわかってくださって、うれしかったです。

拙著のことも、覚えてくださって、感激しております。

ばあばさまへ。この文章を載せたこと、とても勇気がいったことと存じます。でも、その勇気にありがとうと伝えたく、再びコメントさせて頂きました。ちゃぐままさんと同じく胸をつまらせながら読ませて頂きました。幼い命を育てることの大切さ、文章から伝わって参りました。私の娘が小さいときに「お父さん、誰でもいいから欲しい」と言ったことが、今胸に蘇ります。ばあばさま、再度ありがとう。

aiaiさま
共感のコメントいただき、感激しております。

お嬢さまのお言葉はまさにあのころの、わたくしの叫びでもありました。

アメリカには父親募集と、それに応えてくれる制度もあるらしく、うらやましく思ったこともあります。

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