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2016年6月10日 (金)

ジュリアン・バーンズ作『終わりの感覚』を読む

一冊の本を読み終えたあとで、すぐまた、直ちに読みかえしたくなるという本はあまりあるものではないが、私はこの本にはそれをしないではいられなかった。

ブッカー賞を受賞した英国を代表する作家ジュリアン・バーンズの『終わりの感覚』

語り手の学生生活を語る数十ページは退屈しそうになった。授業での教師とのやりとりや、やがて大学に入ってからのガールフレンドとの付き合い、性的な欲望を持て余すエピソード、しかし読み終わってその部分がのちの事件のカギとなっているのに気づかされる。
語り手であり、この物語の主人公であるトニーが親しくなった秀才のエイドリアンがどれほど秀でていたかの叙述が多いのも、のちの事件の伏線となっている。彼が皆の期待どおりケンブリッジ大学に入学、トニーはブリストル大学の史学科で学ぶことになるのだが、しばらくは二人の友情は続く。
ところがトニーが付き合っていた女学生ベロニカとの仲がこわれ、しばらくして、エイドリアンがベロニカと付き合うことになったことを知らせる手紙を受け取ったとき、トニーは平静ではいられなくなって、高ぶった憤懣をそのまま文字にした感情的な手紙を書きおくってしまう。

大学を卒業して、アメリカの旅を終え、帰国したトニーを待ち受けていたのはエイドリアンの自殺の一報だった。その事件の全貌を確かめぬままに、時間は過ぎて、トニーが六十代半ばにさしかかったときから、物語は大きく展開しはじめる。

ガールフレンドを失った腹いせに鬱憤をぶちまけた手紙のもたらしたもの・・・結末に向かいながら衝撃の真実があらわにされるまで、活字から目をはなすことができなくなる。

時間に翻弄される人間の記憶というもの、作者の忘れがたい記述「年齢が進むにつれ・・記憶は重なり合い、行きつ戻りつし、虚偽記憶が充満してくる・・・老人の記憶は断片の集まりや継ぎはぎになる」人間は自分に都合の悪いことは忘れようとしてしまうのだろう。

エイドリアンに送った最後の手紙は彼の人生最初で最後の恋愛をぶち壊そうとした。「いずれわかる」などとしたり顔で書いたトニーは、時の力を過小評価していた・・・いずれわかるのは、二人のことではなく、トニー自身のことだった・・・
「私たちは自分の人生を頻繁に語る。語るたび、あそこを手直しし、ここを飾り、そこをこっそり端折る・・」

これまで生きていると、ふと立ち止まって思い当ることがいくつも出てくるものだ、深み十分の記述である。

78歳まで生きてきたいまの自分の人格を考えるとき、ちっとも向上していないじゃないか、と自己嫌悪におちいるときがある。作者はこう述べている。「実人生で・・・人は時間とともに態度や意見を変え、新しい癖や奇行を身につける・・・こういうものはいわば飾りで、人格とはちょっと違う・・・完成の時期は二十歳から三十歳のあいだか?そこで人格が出来上がり、以後はその人格で一生を過ごす」
そうなのだろうか、自分が思う自分と他人に見える自分との違いの意識が明確にされるこの物語。

人生の晩年に思いがけぬ友情を得て、この本を紹介され、考えさせられること、まことに多く、感動をおぼえた。
K子さん、ありがとうございました。

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コメント

The sense of an endingを読み終わり、他の人はどういう読後感をもったのだろうと思って探していたところ、拝見しました。またマンケルにも言及してあったり、なんとなく共通点があるのかなと思い、わずかに血圧が上昇するのを覚えました。私自身も中西部(インディアナ)に滞在したことがあります。もしよかったら中西部のどこかおしえていただけませんか?

Appleさま
共感をいただいたようで、うれしいです。
もう、はるか昔になりますが、1969年から73年までイリノイ州、エヴァンストンに暮らしたことがあります。
シカゴ郊外の、当時は全米1、2を誇る文教都市、治安もよく、楽しい駐在員生活でした。

お返事ありがとうございます。仕事と家族の関係で最近はヨーロッパばかりですが、またアメリカにも行ってみたいような気がします。
全体的に素敵なブログですね!またお邪魔させてください。

はじめまして。
当方も、『終わりの感覚』についての他人様の感想がいささか気になりネット上をうろつき、たまたま貴女様のブログを拝読いたした者です。お年を感じさせられない、とてもしっかりとした文面で敬服します。

まことに琴線に触れた『終わりの感覚』(和訳)に会えたことが嬉しいと同時に、ジュリアンバーンズに「やられた感」(参りましたの意)。ベロニカの人間性や彼女の母親(おそらく、この物語のキーパーソン)について深く記述せず、それを読者の想像に任せる作家としての彼の器にも感銘し、手紙を書き送りたいと思っています。実現できるかは不明ですが。

かつてドイツ人の知人(同じく60代)がやたらと「生き延びる」ことにご執心で自己陶酔していましたが、機会があればこの小説を読んでもらいたいほどです。書き手に揶揄されている主人公トニー。殆どの人間の代表者でしょう。

今日から再読の予定ですが、それをすることで却って今現在の心の震えに傷をつけやしないかと、ふと、たじろいでおります。

お邪魔し、申し訳ありませんでした。

マイ坊の肉球さま
それにしても変わったお名前ですね。名づけられた理由が知りたいです。
コメントありがとうございます。わたくしはこの頃読書がはかどらず、ついつい映像ばかりを追いかける毎日ですが、先日、あ、これどこかで出会ったことがある、という感じで観ていた映画が『ベロニカとの記憶』というこの小説の映画化作品でした。
ジム・ブロードベントというあまり聞きなれない名前の主役の俳優が好演していました。ベロニカを演じるのはシャーロット・ランプリング、彼女年取ったなあ、と私自身を棚にあげ、さらけ出されて容貌に驚いたのですが、もう何か月もまえに見たので、どんどん退化の速度が速くなる記憶で、くっきりしたものが思い出されません。
でもご覧になってみるとよりご興味が深まると思います。
欧米人は自己陶酔のひとが多いです。日本人ほど相手のことを思いやる国民はいないのではないか、そういうひとが多い国に住んでいるから、セラピーなど必要としなくても生きていけるのではないか、などと思うこともあります。


ばぁばさま
お返事ありがとうございます。
「マイ坊の肉球」にご興味を感じていただき、恐れ入ります。マイ坊は5年ほど前に16歳と8ヶ月で死んだ愛犬の名前でありまして、汗や微かに草の匂いまでするその肉球への郷愁ふくめ、このハンドルネームはその犬への千万の言葉でも言い尽くせない想いに由来しているという次第です(汗)。

ばぁばさまはかねて原作をお読みになっていて、その後偶然に映画化されたこの作品にも出会われたのですね。ジュリアンバーンズの和訳本が上梓されたのが2012年、お知り合いから一読を勧められたのがきっかけとのことですが、「読書が捗らない」とおっしゃりつつもその軽快なフットワークぶりや柔軟さに頭が下がります。

わたしはと申せば、この度たまたまケーブルTVの特別キャンペーンで普段は視聴出来ないチャンネルから映画『ベロニカとの記憶』を、それから原作本ジュリアンバーンズ『終わりの感覚』へ、という流れでした。映画はどうも時間ばかり取られ、1時間半なら集中読書の方がいいというのが本音ではありつつも、「それでも観た甲斐のある映画」に出会うのも類い稀れな贅沢ですね。

シャーロッテランプリングはわたしも好きで、老いてなお、あの神秘的な雰囲気や「意思の強そうな」「影のある」「くせのある」風情は独特だと思います(日本で寵愛される八千草薫で代わりが務まるものでしょうか)。彼女は映画『さざなみ』や『リスボンに誘われて』でも印象的でした(原作は元々は高校の哲学科教師だったパスカルメシエ著『リスボンへの夜行列車』で、同じく哲学的色合いがそこそこ濃いものです)。

読書より映像でしたら、よろしければミヒャエルハネケ監督作品『愛、アムール』を。もうご覧になっていらっしゃいましたら余計でお詫びいたします。

さて、熟成したお年代のばぁばさまに一つだけ質問をさせていただきたいのですが。物語に欠かせない投下爆弾として『終わりの感覚』でかつての恋人(未満)だったベロニカの母親サラフォードの遺言書として500ポンドと、彼女が持っていた友人エイドリアンの日記を受け取れます、という話が弁護士を通じてトニーにもたらされる訳ですが、誰しもが感じる「何故?」について書き手バーンズ自身は、ベロニカの「血の報酬かもね」以外、その理由を明確にはしていません(血とは単なる暗喩ではなくエイドリアンの流したものそのものでしょう)。プロットとして、今更に故人の日記と意味不明な現金をどうぞというのは、いつだって鈍感なトニーへの見せしめ的行為のための小道具という解釈でよろしいのでしょうか。自殺した人へ向けられる好奇な眼差しと与太話。呑気なトニーは少なくとも二度その愚を犯してますが、本人はこれからも変わらないでしょう。そのところが漱石の『こころ』の「先生」と相反する設定ですが。

年末であり寒い時期でもあるので、お返事は急ぎません。
お出来になるときに、どうか迷える子羊に教えてください。

すみません、三年という月日が過ぎたあとの記憶はおぼろげで、滅多なことを申し上げられません。この本への愛着がとてもお強いようですので、なおさらです。
ただ、なにか翻訳にあいまいさを感じられるようなことがあれば、原書を点検なさることをお勧めします。かつて、十年ほど、小説の翻訳を仕事にしていたときがあるのですが、訳者の理解が完璧でないときは、どうとりつくろってみても、必ず訳文にそのあいまいさが表れてしまうことが多いからです。
わたくしは、この本に感動はいたしましたが、欲を言えば、退屈しそうになった初めの数十ページに、読者の心をわしづかみにするような魅力がほしかった、それがないと、長編小説を読み進むのがむずかしいという、せっかちな自分を恥じてはいますが、でもあと残り少ない人生です。それも自分の個性であるかと、思うこのごろです。
ネットの「読者メーター」にこの本の感想四十編が掲載されていますね。これが世の中とはこうしたものだと、思わせてくれるなかなか興味深いなにかを伝えています。

バージニアウルフ著『ダロウェイ夫人』初訳文を上梓したのは、国内最初の女性文学博士K女史でしたが、その文章は惨憺たるもので凡そ日本語として読むに耐えうるものではありませんでした。元よりウルフの文体が難解だったことに加え「意識の流れ」の一語に尽きる、いわゆるお決まりの起承転結パターンを引っくり返す心象風景の繰り返しの作品ですので、「ただ訳せばいい」では駄目だったのです。それから幾星霜、その『ダロウェイ夫人』や『終わりの感覚』はじめ、カズオイシグロ著『日の名残り』などの訳者でもある土屋政雄氏の流麗緻密なお仕事ぶりは、「翻訳ものの文章は読めた代物ではない」という縛りから人々を解放したと評価します。この翻訳もたいそう読み易く、ほぼスムースでした。それゆえ土屋氏のご作業に遺漏など恐らく有ろう筈がなく、ジュリアンバーンズ原作自体に於いて、臈たけたサラの悪女ぶりもほのめかしで済まされ、またサラやベロニカらの行為が呑気者トニーへの報復だったことも「読者の判断に任せる」という計算が働いていたのだろうと、個人的に考えるところです。「神にすがる」などという陳腐な結末ではなかったのが、むしろ普通の人、凡人らしく、現代を映していました。

「読書メーター」なるものはニ三度斜め読みしたことはありましたが、たいして得るものはありませんでした。

言葉には呪詛の性格がある、というバーンズの識見にも首肯します。
でもそれでビジネスをしてしまっている複雑さを思うと、フロベール同様いつか彼もバートルビーの一員になってしまうのかもしれないと、期待半分で想像しております。

ご造詣と識見あふれるコメントありがとうございました。
あ、それからハンドルネームの由来、ワンちゃんだったのですね。わたくしも20年生きてくれたネコのチャイへのせつない思いを未だにかかえておりますので、お気持ちよくわかります。
佳いお年を迎えられますように。

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