大晦日のまえに
おせちはほとんど作り終えて、あとはサーモンマリネと雑煮の支度のみとなったので、買い忘れていたミカンと出し昆布を手に入れなければ、と思い立ち、その前に気になっていたことをした。近所に住む友人Jさんに電話したのだ。ここのところ一カ月に一度くらいは電話しているのだが、いつも留守、きょうもむなしく呼び出し音だけがひびく。
お姑さんがホームで百三歳で亡くなったあと、ここ数年介護していたご主人もすぐあの世へと旅立たれ、彼女は一人になった。築後五十年くらいたつ家は二人の息子さんが家族を連れて戻ってきても住めるくらい広いのに、息子さんたちは戻ってくるどころか、訪ねもしないらしい。その離れを子どものいる五十代の夫婦に貸していて、自分にとても優しくしてくれると話してくれたのはいつだっただろう。もうひとりになったから、外国の友人のところにも行けるわ、と言った声は明るいように思われた。
だから留守でもきっと旅行中かも、と思ってしまっていたのだ。
きょうのわたしは、きょうこそは、と行動を起こした。彼女の家を訪ねたのだ。
呼び鈴をおしたが、返事はない。横の木戸を開け、奥に入った。細い通路の一番奥、離れの入り口、ベルを鳴らす。
三度目ぐらいにようやく返事があって、マスクをしてコートを着たままの女性がドアをあけた。Jさんの友人だと名乗って、お留守のようだけど、と言うと、彼女は一瞬絶句して、実は、とまた口ごもり、お亡くなりになったんです、と言うのである。
ええっつ、いつですか?
四月です、の応えに、言葉を失った。
それほどのときがたってしまっていたのか・・・
Jさんが二日ぐらい姿を見せないので、そのひとは決心して家の中に入り、二階にあがって倒れているJさんを見つけたのだという。
Jさんの死因は喉にたべものをつまらせたからだった。
お骨は徒歩十分のところに住んでいるご長男のマンションにあるということで、ご遺族と面識もないわたしとしてはどうしようもないのだった。
もっと早くに行動をおこすべきだった。でも電話ではいつも彼女が一方的に自分の話をしゃべり続け、会って話したいという気持ちがなさそうだったので、遠慮していたのだけれど、半年以上もたってしまったなんて、悔やまれる、自分の優しさが足りなかったことが・・・
故人がだれと親しくしていたか、少なくともこのひとには訃報を知らせるべきというようなことが、息子さんたちにはわかりにくいのかもしれない。
故人の死を悼むひとがだれなのか、遺族にはわかりにくい、という家族関係が存在している。
それを知ってしまったことも、思いがけない、遅すぎた訃報と、間に合わなかった自分のふがいなさに加わり、より重い気持ちとなって、いつまでも消えなかった。
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