教会に通いつつも
日曜に教会へ通うということが義務化してきたが、さらにはそれが習慣化するまでに、いろいろな思いにとらわれる。讃美歌の選択がありきたりで、物足りない。一度大好きな曲をリクエストしてみたが、無視されてしまった。お説教は講演ではない、と信徒必携という小冊子に書いてあったが、それにしても2000年まえのみ言葉の解釈にもう少し現代の生活を結びつける工夫があってもいいのではないか。洗礼を受けるまでは指導があったし、受けたあとはみんなから祝福されたけれど、そのあとの具体的なフォローがないので、自分で探らなければならない。それにまつわる小さな不満の集積に、昨今、疲れがちである。現状に満足しきれない、そういう自分の欲深さを恥ずかしくも思い、それもストレスになりつつある。
きのうは礼拝堂に黒いスーツを着た男性集団が三十名ぐらい、ものものしく、前三列を占領していて、なにごとかと思ったら、招聘された長崎牧師が同志社出身ということで、グリークラブのOBの東京クローバークラブの方たちが歌唱を披露するために招かれていたのであった。
そしてお説教の前、コルネリウスのレクイエムのアカペラが始まると、わたしはすぐに宙に舞いあげられたような感動の渦中に入った。これはもう、天使ガブリエルの集団とさえ思われるような・・・とりわけ低音のずしりと身体をふるわせるほどの厳粛で深い旋律の響きに引き込まれ、ただただ至福のひととき・・・。
プロテスタントにはめずらしい、ガウンをはおられた長崎牧師のよく通るお声とお姿も耳にも目にも心地よく、現代のサタンとは目に見えず、臭いも音もない放射能という脅威ではないかとおっしゃることにうなずく。
東京クローバークラブのアカペラは最後になおも三曲、それに返礼をと、教会のパイプオルガンとハンドベルの合奏が呼応し、音楽が心に及ぼすものの大きさを感じつつ久々の満足感にひたりながら、帰途につくことができた。
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