書店で
今日のイタリア語クラスは受講者三名、同年代の男性が近況報告で、読みたい本をかかえているのに読めなくなった。すぐに目がしょぼしょぼしてくると嘆く。右に同じとわたしが言う。それなのに、帰りに渋谷の紀伊国屋書店をのぞいた。
ついに芥川賞受賞の『abさんご』が出た。ぱらぱらとめくる。横書き、ひらがな多し。句読点が少ないので、漢語を開いたひらがなを判読しなければならない。疲れる。一ページ立ち読みしたが、買う気にならなかった。
そばに老人向けの本が三冊、著者は曽野綾子、佐藤愛子、浅田次郎。
曽野さんの本をめくる。『老年になる技術』またあの形式かな?と思ったらやっぱりそう。
ご自分が選んだ著書の中の短い至言があって、そのあとにその著書のタイトルが。つまりは著書の至言のアンソロジー形式。この数年、彼女の本は皆このタイプ。
この言葉がどう書かれているのか、知りたいなら、これを読みなさいという、親切より営業意識が感じられて、好感が持てない。
曽野綾子さんのデビュー当時からのフアンだった。『午後の微笑』『女神出奔』など胸をおどらせ読んだ。『天上の青』くらいから読まなくなった。庶民の生活がよく書けていなかったからだ。
『戒老録』は購入、感動した。でもこの種の本のリピートはもう結構という思いがする。
『老年になる技術』をめくると「もしかすると百歳まで生きてしまうなら」が目にとまる。「死ぬ日まで自分のことは何とか自分でするという強固な目的を持つことだ…」という結論。
スポーツクラブで健康維持に必死になっている同年代のひとたちの表情が目に浮かんだ。
人間は死ぬ日までそんなにも努力しなければならないのだろうか。
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