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2011年4月に作成された記事

2011年4月30日 (土)

華麗にして気がかりだったロイヤルウエディング

ウエストミンスター大寺院の内部は、さすがガーデニングの国だけあって、緑の樹木の鉢を配した目の覚めるような美しい色彩、パイプオルガンの荘厳な響きと、天国的な合唱の聖歌隊とのハーモニーとで大迫力だったが、王室ご一家の画像には衝撃を受けた。
女王ご夫妻、89歳と85歳のお姿、ああなんとお年を召されたことか!
皇太子と呼ぶにはあまりに高齢化した白髪のチャールズさん、どことなく居心地わるそうなカミラ夫人、たしか奥さんに逃げられた、アンドリュー王子、あまり清楚な感じではない二人の年頃の王女さまたち、この一大儀式を喜ぶというよりは複雑な心境が漂っているような気がした。
ウイリアム王子の凛々しいお姿にひとつだけ気がかりが…頭髪部分である。
早速ネットで検索してみると、イギリスには<ウイリアム王子のおぐしを見守る会>なるものもあるらしく、日本では、若くして母君とおぐしをなくされた悲運の王子、という見出しもあり、ネットの声というサイトには自ら、毛無しさん、と名乗る投稿者が、イケメンを一瞬でキモメンに変えてしまうハゲの破壊力…という記事に続き、ウイリアム王子の頭髪の変化を写真で追っている執念に近い追っかけルポも載っている。

他人事でなく、受けとめたのは、我が家の男性二人が薄毛の遺伝を立証しているからだ。義父そっくりになった夫は六十代から和製ショーン・コネリーを目指して、ヒゲをたくわえ、息子も四十代からハゲ始め、現在では居間に二人が座っていると、頭だけではどちらがどちらかわからなくなるほどなのである。

それにしても、ウイリアム王子の28歳であの頭髪の衰退は早すぎる。
そういえばモナコの大公もお顔は立派なのに、頭髪なしであった。
王家はストレスが多いのであろうか。

2011年4月28日 (木)

新潮45 五月号

今回の一冊は読みごたえのある記事ばかりだ。

曽野綾子さんと藤原正彦氏の「日本が生き残る道」と題した対談は期待通りだった。
日本人は身内志向で政治家も学者も自分の部局に有利なことしか考えない傾向がある、それがこの未曾有の天災で眠っていた雄雄しいものが目覚めたのではないか。
二人が共通して憂うのは、日本の教育と家族のありかた、日教組が自分たちを「聖職者」ではなく「労働者」だと主張してから教育崩壊が始まり、GHQが「家族より個人」と吹き込んでから家族制度が崩壊したということ。
とりわけこの対談で共鳴したのは、日本の広報がなっていないという意見。
原子力の専門家が正しい文章を書いたとしてもよい広報にはなるとは限らない。
これまで日本は歴史的にも多くの事件をあいまいにして大損をしてきた。
わが国の立場を世界に英語で発信する国際広報局のようなものを創設すべきという提案である。

養老孟司氏の『日本人は「ご破算と復興」の歴史に学んできた』という記事も共感が持てた。
彼は同い年だからであろうか。男性ではあるが、七十を過ぎたこの年齢で感じることが共通しているのである。
  <この年になってわかるのは、今の自分がこうしてあること自体が何かにたいする答えだということ…生きていれば、さまざまな悪いことが起るが最後的にはプラスになるように考えるしかない…むしろ人生が完成する、より成熟する、より良い答えになる…のだと>

2011年4月26日 (火)

書店で

久しぶりに大型書店に入った。正面に『原子炉時限爆弾』というまっ黄色の本が平積みになっており、そのまわりにも『日本の覚悟』『日本の瀬戸際』『日本人よ目を覚ませ』『日本は憲法で滅ぶ』など、さあ、不安になれ、不安になれとばかしの書物がずらりと並んでいる。

帰国して二週間分の新聞を読んで、一番共感したのは、おかだ・としお氏の『テレビを消し仕事に戻ろう』と呼びかける寄稿文だった。今回の大震災について被害が四つに分けられる。
   一次災害…地震や津波
   二次災害…原発事故やインフラ破壊
   三次災害…社会不安 
   四次災害…モンスター化する我々
災害でもっとも被害が大きいのは三次と四次災害、お互いの行動を見て不安になり、メディアの加速に乗って、もうダメだ!と叫びをあげて我々自身がモンスター化することだという説に大きくうなずけたのであった。
いつものように店をあけている定食屋や、定時運行している電車をみて、大丈夫なんだ、と少しだけ安心することが無駄な社会不安を減らす…なるほど、日常の義務から逃げずに、できることをきちんと毎日していくことが大事なのだとわからせてくれた。
かつて117キロあった体重を15ヶ月かけて50キロ減量した手記がベストセラーとなり、そのダイエット法を盗用しようとしたビジネスと戦った、メディアを知りぬいている著者の言葉だけに説得力がある。

今や売れすじを目指している書物を素通りして、迷わず、『佐野洋子』追悼総特集、100万回だってよみがえる、と曽野綾子さんと藤原正彦氏の対談が載っている『新潮45』だけを購入、帰途についた。

2011年4月24日 (日)

帰国

朝十時の成田空港はひっそりしていた。
バゲージクレームの荷物もスムースに出てきて、四個をカートに載せる。
ちょうど品川行きのバスが出てしまったところだったので、一時間待つことになった。
両替をすませたあと、ドコモの店に行くことにする。
通りかかった空港の職員に場所を訊くと、地下だということで、わざわざエレベーターにつきそって降りて、親切に案内してくれた。
ロンドンでの回線不能、ミラノで使ったとき教わらなかった表示が出て、困惑したことなど、苦情を並べようという勢いがそがれてしまったほどだった。
バス到着の時間まえには、係員が早めに出てきて、正しい行き先の停留所に待っているかどうか、チェックしに来てくれる。
日本はやさしい。
よその空港ではこちらが親切を求めないとしてもらえないのに、親切を求めているひとを探しにきてくれるのだ。
車窓から見える東京の町並みがきれいに見えた。
イタリアで一番近代化しているミラノで暮らすようにステイした十日間、そして昔はあこがれだったロンドンの町の今をのぞいた二泊、以前は帰国すると、ごみごみした自国の風景をうんざりして見ていたのに、未曾有の災害のあともしっかり暮していこうとしている個々の気概が漂っているような整然さ、それを感じ取っていた。
桜はまだ五分の咲き、見ごろに間に合ったのだ。
夫がかつて、世界の57カ国をまわる仕事をしたあと、日本ぐらいいい国はないよ、言った言葉をまさしく実感として受け止め、深くうなずきたくなった帰国であった。

2011年4月23日 (土)

機内

機内の右隣二席は離陸直前まで空席で、駆け込んできたのは、まるきりすっぴんの母親と、大学生ぐらいのみやげ物を一杯かかえた娘。
母親はすぐにはだしになって、畳おもての草履サンダルにはきかえ、離陸してほどなく、サンドイッチとフルーツサラダを取り出し、むしゃむしゃと平らげ、そのあと歯ブラシでごしごしやったあと、水でうがいをしてゴクリ、さらには乳液と化粧水とで、五十回ぐらいずつマッサージ、アイマスクをつけ、毛布にくるまって寝てしまった。
その一部始終を白い目でずっと眺めていた。
ともかく話をしないですんで何よりの相手みたい。
仮眠もいれながら、すでに封切りされている話題の映画ばかりを、三本見る。

ところがソウルに着いて、乗務員交代のため一時間の停止中、お隣さんがわたしのと、まったく同じケイタイをとりだすのが見えると、思わず話しかけてしまった。
それ、もしかしてドコモですか?
ええ、そうです、の返事に、ロンドンでの回線の悪さを話した。
あたしたち、スペインに行ってたんでだけど、使い方わからなくて往生しました。
行く前にこれだけ聞いてきたんだけどね…レポート用紙一枚ぎっしり、自筆で、かけ方のすべてを書いてあるらしい。
わたしはにわかに親近感をおぼえ、ロンドンのタクシー料金のことも話した。
そうですよ、あたしなんて一万円近くとられたわ、ひとが一人ふえたり、荷物が一つふえたりしても料金あがるのよ。
わたしはなんだかうれしくなって、さらに手荷物検査のことも話した。
あたしのときなんかね、フォトナム&メイソン本店のハチミツ十個やられたのよ、十個よ、友達のみやげにと思ったのにね、預けるスーツケースがハチミツだらけになったらどうしようって思って入れなったのよ。
彼女に抱きつきたくなるのをこらえた。
このひとはロンドンで二年も留学経験があるのだという。
それなのに、である。
人を見かけで判断してはならない。
思い込みの強さを深く反省しながら、成田まで、話は尽きず、あっという間の二時間が過ぎたのだった。

2011年4月22日 (金)

帰路

ヒースロー空港のターミナル・5、手荷物検査はスムーズに流れていた。
その流れに順調に乗れるものと信じて疑わなかったのだ。
それなのに、わたしの赤いフライトバッグは一つだけ別のベルトコンベアーで運ばれてしまった。
こちらへどうぞ、マダム、あなたのバッグの中身を全部調べなければなりません、007の殺し屋によく似た男が言った。
えっつ、なにそれ!一瞬きょとんとなったが、もしかしたら、と思い当たった。
あのママレードとレモンカードか?
彼はバッグの中身をもれなく探り出して、最後にジャムのビンを二つ突き出した。
規則にのっとって、この二個を没収します。
わたしは思わず叫んだ。
これって、あなたの国のプロダクツじゃないの、フランク・クーパーは日本にはないのよ、夫の好物なので、買ったんです!
ノー、マダム、規則です、殺し屋は無表情で言った。
わたしが泣きだしそうになって、悲痛な顔をしているのを見かねたのか、そばの少しやさしそうな男が言った。
ここを出たら、すぐフォートナム&メイソンがあるから、同じようなものが買える…

ああ、バカだった。ここへきてこんなドジをするなんて。
大きいスーツケースに入れたら、重装備していないビンが割れて、スーツケースの中がママレードだらけになるのを、ただ、ただ、怖れたのだ。
二つのジャムのビンはあえなく、没収専門のカートの中に姿を消した。

暗い沈んだ気持で仕方なく、フォートナム&メイソンのママレード、小三個セットとレモンカードを買った。
バカだバカだ、とまだ自分をののしりながら。

2011年4月21日 (木)

夕食もまた

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夕食のまえに再びセルフリッジズを訪れた。
カスタマー・サーヴィスのところにまだあの女性がいたので、あなたの心温まる対応にどれだけ励まされたかわからない、カードは見つかったと感謝をあらわして、報告した。
マーブルアーチに戻り、チャイニーズの夕食をとるつもりだったが、もっといい店がこのオックスフォード・ストリートにあるのではないかと、ぶらぶらしてみた。
通りの向こう側に『WASABI』という和食の軽食屋があって、弁当が並べてあり、どんぶり、ヌードル系もあるのだが、イギリス人の好みに合わせようとしているのか、ごたごたと盛りがよすぎるので、眺めただけでやめてしまった。
やはりホテルのそばまで戻ろうかと思って、ふとセルフリッジズを振り返ると、通りに面した大きなウインドウ越しに、カウンターで食事をしている人たちの姿が見えた。
みんな満足そうな顔に見える。
何を食べているのか確かめようと、中に入ると、彩りのきれいなカップが目についた。
ギョーザ・ベジ・スープ、正しく今食べたいものだ。
愛想のいい若者のコックにスープをたっぷり注いでもらって、今夜の夕食に。
ギョーザが四つ、中ほどにもやし、人参、チャンツァイ、青菜など、底のほうに中華めん、量といい味といい、大満足。
結局ロンドンでの外食はすべて、セルフリッジズで安上がりに終わった。

2011年4月20日 (水)

ハイドパーク

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すでに一日に費やすエネルギーがかなり消費されてしまった感じで、もう乗り物に乗ってどこかに行く気分ではなくなっていた。
夕暮れが近い。
突然イギリスの自然をじっくり味わいたくてたまらなくなった。

そうだ、ハイドパークを散策しよう。
マーブルアーチからケンジントンまで広がっている大公園、足の許すかぎり歩いてみよう。中ほどの川のように細長いレイクまでまっすぐ道がのびており、すでに花をつけている木や、芽吹いている木など、広大な芝生のあちこちで目を楽しませてくれる。
イギリスの木々は美しい。
二十数年まえ初めてロンドンを訪れたとき、建築物ばかりでなく、樹木や植物にも感動が広がったのだった。
でも今は木々を見ながら、桜ももう見ごろかも知れないと思う気持の方が強い。
外国へのあこがれは卒業して、母国への愛情が強まっているのを感じる。
レイクにはレストランとなった船が浮かんでいて、三羽の白鳥がいた。

戻る道の先に老夫婦と息子夫婦の四人の姿があった。
庶民の憩いの場所であるこのパークで束の間の幸せを象徴する姿に思われた。

2011年4月19日 (火)

パニック寸前 2

セルフリッジズのカスタマー・サービスの女性はラテン系の美しいひとで、大きな瞳に気づかいを一杯たたえ、ジャム売り場に電話し、紛失カードの有無を調べてくれた。
幸い、カードの詳細を記したメモを持っていたので、書類の記入はスムースに運んだが、紛失物の保管先が複雑らしく、かなり時間がかかった。
結果はノー。
さらに彼女は、今の時期カードをとめないほうがいい、それより、取引先の銀行を調べて、使われていないかどうかのチェックをするのが先だ、ロンドンで手続きできる銀行を調べてあげる、と言ってくれて別室で待たされることになった。
彼女の応対が実におだやかで、丁寧だったので、気持も落ち着き、待っているあいだに少しずつ記憶がよみがえってきた。
そういえば今朝、朝食のとき大きなバッグを持つのが面倒だったので、小型のバッグに必要なものを移して持って行ったのだった。
そのときカードをそのバッグのポケットに入れたのではなかったか?
一刻も早く確かめたくなった。
戻ってきた彼女から銀行名のメモを受け取り、セルフリッジを出ようとしたのだが、時間は二時、すべきことはしたという安心感と、落としたのではないかも、という期待感で、きゅうに空腹をおぼえた。
Food Hallに立ち寄り、ワイルドライスのサラダとミックスサラダ、そばにあったレーズン入りのブラウンブレッドを買い、早足でホテルに戻り、フロントに熱いティーを頼んで自室へ。
小型バッグのポケットをさぐる。

あった、あった!!

神様、仏様、ご先祖様、ありがとうございます。
テイクアウトのランチをおいしく食べることができた。

教訓:カードの保管場所は変えないこと。

2011年4月18日 (月)

パニック寸前 1

二日目、一日フリーの日であるが、安い方の部屋に移ったあと、翌日のフライトのインターネットチェックインと座席選びを、フロントの女性に手伝ってもらって済ます。
きのうと違うひとだったが、ずっと親切で有能、飛行機が予定通り飛ぶことがわかって少なくともきょう一日は心安らかでいられる。
ロンドン滞在の目的、トテナムコートロードの書店に直行。
地下鉄で三つ目、それなのに4ポンドとは高い。
学生街だと聞いたのだが、通りはごみごみしていて、文教地区には見えない。
徒歩五分のところにある、FOYLESという書店は、立派な店がまえ。
ロザムンド・ピルチャーとエリザベス・テイラー(作家)の本の場所は同系の棚にあって、ペーパーバックばかりで、純文学系とは異なってみえた。
三冊ほど選んで、カードで買うつもりで、バッグのいつものポケットをさぐった。
ない、カードがないのだ。
ええっつ?そんなはずはないのに、そこでごそごそしてもいられないので、ともかく現金で支払う。
レジからはなれた椅子を探し、座ってふたたびバッグの中を丹念に探す。
ない!ない!穴に落ち込んだような気分。
これは大変、もし、落としたりしていたら、すぐにとめなければならない。このあと、予定していた、ハムステッドのブリッジクラブ行きどころではなくなった。
ホテル代は支払ってある。頭がぐるぐると回りだす。問題はもし、明日以降なにかが起きたとき当座の費用を確保しておくことだ。
予備にそなえてあったユーロの残りと円とをポンドに替えておくことにしよう。
幸いマーブルアーチの駅入り口にCHANGEの看板が出ていたのをおぼえていた。
きのう最後にカードを使ったのはセルフリッジズだ。
一度ホテルに戻るとまた出てくるのが疲れるので、帰りに立ち寄って、落としモノがなかったかどうか調べるのを先にしよう。
カードで大きな買い物をすると、暗証番号を要求されるし、日本字のサインだから、すぐに使われるということはないのではないか、というかすかな期待を秘めつつ、こういうときこそ転ばぬようにと、足をしっかりふみしめ、再び地下鉄に乗った。

2011年4月16日 (土)

セルフリッジズでテイクアウト

ロンドンではおいしい和食と中華を食べようと思っていた。
ホテルの周辺を早速チェック。和食の店が一軒あったものの、閉めている。
地震のせいなのだろうか。
ほかは、こじやれたフレンチやイタリアンばかり。
散策はあとにして、徒歩距離のセルフリッジズ・デパートに急ぐ。夫の好物、フランク・クーパーのママレードを買うためだ。
なんでもハロッズは王室御用達をはずされ、いまは落ち目で、このデパートのほうが主流化しているらしい。
十年ぶりの、このデパート、以前より近代化した感じ。
クーパーのジャムは隅の方の棚で見つけた。
わずか二種類しかなく、味が濃そうな黒い色のものでなく薄い色を選ぶ。
このあまりにも大きい器のジャム、その重さ、大きさ故に輸入されないらしい。
007の小説で知ったこのジャム、今では主流じゃなさそうである。
往きの飛行機で隣合わせたイギリス人女性が推奨したレモンカードも買う。
ところが、日本に持ってかえるので、と言ったのに特別の包装をしてくれるわけではない。日本だったら、あのプチプチのあるビニールかなんかで厳重に包んでくれるのに。

地下にFood Hallというのがあって、日本のデパ地下ほどではないが、かなりいろんな惣菜が並んでいた。
寿司を探したら、あった、あった、かなり小さめの巻き寿司群が並び、その隣には、焼きトリや、エビ天、カツなどを巻いた太巻きもあったので、大小まぜて十個ぐらいまとめて買い、本日の夕食とする。〆て4ポンドちょっと。
デザートにフルーツカクテル。
味は上々で、食べ物の味が最低というイギリスの汚名をアジアの食品たちが挽回させつつあるのを実感した。

2011年4月14日 (木)

ロンドンへ

ミラノを発ち、ロンドン二泊が控えている。
いっそすっ飛ばして日本に帰ってしまいたいという思いがかすめるが、ともかく予定をこなさなければならない。
出発日にイタリアは夏時間になり、着いたロンドンがすでに夏時間に入っていて、ケイタイの時間表示は完全に狂ってしまった。
日本時間が出ないで、イタリアと英国の時間表示、おまけに回線に問題があるのか、ロンドンのホテルに電話がかからない。
ドコモのケイタイを投げすてたくなった。
なんとなくいやな予感のする英国入国。
絶対に安全なタクシーは?と訊いて、列に並び、乗り込む。
メーター表示の赤ランプが一分ごとにチカチカ変わって数字がどんどん増えていくので、これが値段だったら、どうなることやらと不安。
マーブルアーチの小住宅みたいなホテル前で、運転手はそのメーター表示と同じ値段を要求した。
69ポンド、べらぼうじゃないの!
せいぜい高くて50と思っていたのに。この値段妥当かどうか、ホテルの人に確かめさせてもらうわ、とドアベルを鳴らす。なかなか出てこないので、いらいらする。
ようやく出てきたのは髪をワックスでテカテカに固めたインド人。
ホテルから頼むときは50だが、ヒースローのターミナル・ファイブからだと、この値段もやむおえない、乗る前に必ず値段を確かめたほうがいいと言われてしまう。
うかつだった。
運転手にカードで支払えないか、尋ねたが、カードだと10パーセント高くなると言われ、仕方なく現金を支払う。

案内された部屋がまたバスタブのない狭い個室、これで賞をとったホテルなの、がっかりだと言ったら、ネット予約だとこの部屋なのだという応え。
バスタブつきだともう30ポンド高くなると言うのだが、どうしてもゆったりお風呂に入りたかったので、要求をのみ、一泊だけその部屋、二泊目はシャワーだけの部屋に戻ることにした。
ところがバスタブつきの広い部屋はテレビの写りが悪く、一番見たいニュース番組が見られない。しかもケトルもなしだ。
文句を言うのに疲れ果てながら、それでも負けじと怒ってみせたら、ポットつきティーと、ペイストリーにビスケットを添えて愛想笑いをしながら、運んできた。

2011年4月13日 (水)

新しい教会

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 ホームステイしたミラノの新興住宅地の広場には二十世紀に建てられた教会がそびえていた。
戦後見かけたカマボコハウスに似た形で美しいというよりは奇妙なダークグリーンの建物。
内部は現代的ではあるが幻想的な空間でパステルカラーの抽象画風、最後の晩餐が不思議と調和を保っている。

ミラノならではの建築物と言えるだろう。

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2011年4月11日 (月)

カプチーノが飲みたくて

イタリアの朝はいつも小鳥の声で目覚める。
小鳥たちは啼いているのではない、歌っているのだ。
抑揚のある澄んだ響きのいい歌声にさわやかな目覚めを味わうのは、トリノでもフィレンツェでもボローニャでも経験したことだった。
そしてイタリアの空。
雲の配置、夕日の色合い、そこにミケランジェロが描いた神の像があらわれても少しの違和感もないような荘厳で清廉な空。
ゆったりと目を向けられるほどに日常が慣れてくるころ、もう帰国がせまっている。

トリエンナーレ美術館を観たあとのミラノの中心街めぐり、近郊のパヴィアへのドライブ、急遽召集された親しいブリッジプレイヤー八人で競った午後のトーナメント、スケジュールをこなしたあとの疲れがずっしりと重く、夜九時を過ぎると眠気をもよおす日々で、六十代のときよりずっと体力がなくなっているのがわかった。

出発の前日、奥さんにことわって、近くのバールでイタリア式典型の朝食をとる。
カプチーノ、ブリオシュ、そして絞りたてのオレンジジュース。
トラムもバスも一人で乗りこなせるようになり、奥さんがおしえてくれたバスで乗り継ぐ行きかたではなく、10分ぐらい長くかかるけれど、トラムだけで直接行けるドゥオーモへのアクセスも自分で発見した。
こうしてまるでミラノに暮しているような日常に慣れてくるころ、里心も強くなってくるのである。
帰る家のある幸せをつくづくと感じるのもこの頃なのだった。

2011年4月 9日 (土)

ミラノ風暮らしの今

海外のブリッジサイトで知りあったイタリア人男性二人が昨年一ヶ月かけて日本の南半分をめぐる旅をしたとき、バイリンガルで国内旅行通のブリッジパートナーのAさんを誘い、二人で、案内役となった。
実際に会ったのは東京と鎌倉で二度、最終日の夜に会食しただけだったが、行く先々でメールを受け、質問に答えたりして応援したのをとても感謝され、ミラノに来ることがあったら、返礼をしたいとしきりに言われていた。
彼らの旅行はこれ以上ないほど質素で、宿泊場所も東京では外国人が泊るもっとも安価なバックパッカー用の宿、京都、奈良などもバイクでまわるという身軽さ。
地球の歩き方の世界版、ロンリープラネットを研究しつくしてプランをたててきているのだが、アドヴァイスするときも予算はどの程度なのかしら、と彼らの懐具合がつかめなくて思案にくれたことも多々あった。

ピエモンテからミラノに戻ってすぐ、彼らはホームステイの奥さんに電話してくれて、わたしを歓迎するスケジュールの打ち合わせをしてくれた。

まずはディナーに招待される。
料理は自分が作るという六十代男性のアパートが一体どんなところなのか、オフィスのような狭い一室かも、などと想像していたのだが、ドアが開いて招き入れられて、我が目を疑った。
この上なく美しいインテリアだったからだ。入り口に彫刻を施したアンティークのピアノがあり、家具調度から、壁にかけられた絵画から、豪華というのではないが、目の肥えた、研ぎ澄まされた感覚の持ち主だから選びつくせるミラノ独特のデザインのものが調和のとれた配置で、心地よい空間をつくっている。
ボク作る人、ワタシ働くひとの役割に変わったとか、で奥さんは週数日、仕事に出かけ、弁護士試験に合格したばかりの長男が一緒に暮していて、ディナーのときは、魅力的な奥さんとその長男、あのときの旅行のパートナーが加わり、にぎやかで楽しい食事になった。彼の手作り、ズッキーニと海老のフェットチーネ、サーモンのグリル焼きも美味であった。

今回のホームステイ先の家と彼らの住まいとを、まったく逆のイメージでとらえていた自分の思い込みに我ながらあきれてしまうのだが、旅行を特殊な行事とみなさず、日常を移動するというような解釈で徹底して実行した、彼らのライフスタイルに心から脱帽したひとときでもあった。

2011年4月 7日 (木)

『トスカ』を観る

スカラ座のチケットはミラノ在住のイタリア人でも入手困難で、よくチケットが買えたわね、と会うひとごとに言われる。
ひとつにはネットで買うという行為に慣れておらず、二ヶ月もまえから予定を決めるということも苦手なひとが多いということらしいのだ。

さてそのスカラ座に行く日、奥さんは少しでも予備知識を与えたいという配慮からか、親切にも元スカラ座の合唱団員だったという日本人女性を三時のお茶に招いてくれた。
日本語で一杯話してね、と言ったのに、自分が先に口をきり、例のごとく、とまらなくなって、結局合間を縫ってその人と久しぶりの日本語で早口会話をしたのだが、なんでも故郷の山口から戻ったばかりだというそのひと、のっけから、日本が大変なことになっていると言うのである。
大阪に着いた新幹線は女性や親子づれで満員、みんな東京を離れて疎開しようとしている、もし心配だったら、なるべく早く帰ったほうがいい、どこか地方の親戚にでも疎開するところ、ないんですか?よかったら、わたしがいつも航空チケット手配するとこ教えますよ…
これはもうただならぬことなのかと、スカラ座の情報どころではなくなってきた。
だが、待てよ、ここで早飲み込みしてはならぬ、夫からなにも言ってこないではないか、ともかく今夜のスカラ座を無事に見終わってから電話することだ、表向きは笑顔で礼をいい、内心は黒雲がたちこめているのを秘め、タクシーを呼んで出かけた。
開場少し前に着き、ドアが閉まっていたので、何時に開くのかしら、と待っているひとたちにイタリア語で訊いたら、怪訝そうな顔をされる、大半が外国人で英語を話し、いかにチケットが手に入りにくかったかを語り合っていた。
黒いユニホームにペンダントを下げた男女の案内人は笑顔もなく、よそよそしい。二階パルコ席11最前列は見やすい席だったが、隣に歳の離れたカップルがいて、後ろの白髪の男性が観劇中に彼女の背中に顔をうずめたり、ちょっと不快だった。
イタリアなのだ、ここは。

『トスカ』は40年まえシカゴで見たときは暗い、陰鬱な印象しかなかったのだが、今回はオペラの生き字引的友人Kさんから、台本をもらっていたので、それをめくりながら、じっくり関心を持ってみることができた。
舞台はどちらかと言えばシンプルだったが、悲劇性を高める効果をかもしだす格調や色彩を選んでいる。
主役のだれかがとりわけ目立つという印象はなかったが、ソプラノも品格があるまろやかな声、太り気味のテノールは容姿をカバーするのに十分なのびのある耳ざわりのいいアリアを聴かせた。急遽代役となった敵役のバリトンも憎憎しげでなかなかよかった。何にも増して素晴らしかったのはオケである。Kさんが若手の有望な指揮者だとおしえてくれたが、正しく、これまでイタリアのほかの歌劇場で聴いたオケとは比べ物にならぬほどの、美しい音色と、響き。メロディはいつまでも耳の中でこだましていた。
きょうの気分は『トスカ』がふさわしい。
もし別興行の『魔笛』を見ていたとしたら、パパゲーノの陽気なアリアはわたしの孤立感をいっそう深めていたに違いない。
心配していた帰りのタクシーはドゥオーモ広場から難なく拾えて、しかも往きより安かった。

深夜ようやく夫と電話がつながる。東京は安定してきている。原発はもちろん不安はあるが、日本は大丈夫だ、日本を信じろ、流言飛語に迷わされるな、ゆっくり楽しんでおいで、の言葉がじんと心にしみた。

2011年4月 6日 (水)

ある日の昼食

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約束では、ミラノに戻ってからは昼食を自分ですることになっていた。
そこで早速ごはんを炊こうと思ったのだが、奥さんはどうか一緒に食べてほしい、日本食は大好きだ、これまでのホームステイ滞在者がおいていった日本食も一杯ある、見てくれと言って箱を差し出すのである。
中にはインスタント味噌汁や海苔、レトルト商品、お茶などで一杯なのだが、一年まえから数年まえまで、賞味期限はとっくに切れているものばかり。
この家の整理の悪さをまさに具体化したような現実である。書棚に積みあがった新聞や書類、掃除も隅々まで行き渡っていない。
彼女は翻訳経験もあり、詩作もしており、ボランティアで教師や会合の委員などもしている知的な人で、自己実現に熱心だが、だれかに認識されたいという欲望が強いあまり、室内の整理にまで頭と体がついていっていないのだ。
日本にも似たような人物が思い当たる。
全部捨ててください、賞味期限を読み上げながらついつい声が大きくなった。
仕方がない、昼食は手作りしてあげることにしよう。
ちょうど表に市が立つメルカートの日だったので、日持ちするピクルスをつくることにする。カリフラワー、赤や黄色のパプリカ、キューリ、人参、フィノッキ、を一口大に切り、アップルヴィネガーとオリーブオイルでローリエ、ガーリック、塩、砂糖、水を加えひと煮たちさせて、上からかけ、ふたをしてしみこませる。粒コショーがなかったので、粉のもので間にあわせようとしたら、彼女、隣家の未亡人から借りてきてくれた。
白飯を炊き(電気がまがないので、この火加減が難儀)ナスの醬油いため、手持ちのインスタント味噌汁をなべに二食分つくり、摘み草でとったノビルをこまかく切ってちらす。ナイフの切れ味がひどい。まるでおそまつな果物ナイフのようなもの、トリノのホームステイ先の奥さんはゾーリンゲンのセットを持っていたというのに。
ガスもひねってすぐ点火するタイプでなく、彼女は百円ライターを使っていて危ない事おびただしい。こういうことの倹約はどうかと思う。メルカートで点火器を買うというサービスまでした。
おかずのメインは彼女のサバのボイル、めずらしいメニューにご主人は目を輝かせ、ブオーノ!!
隣家の奥さんにもおすそわけしたら、大喜びだった。
ご主人がミラノの主要新聞CORRIERE DELLA SERAの一面トップの写真を見せてくれた。
地割れした道路と見事に修復された同じ道路の写真が二枚、日本はイタリアが三年かかってすることをたったの六日で成し遂げたと書かれてあった。

2011年4月 5日 (火)

節約レッスン

イタリア人主婦は節約家が多いが、この奥さんもまさしくその典型で、料理の残り物を無駄にしない。
チキンの残りがポレンタのソースの具になったり、前日のスープに小さいパスタを混ぜて、野菜を加え、具沢山のパスタスープにしたり。
節約家の中には冷凍野菜を使うひともいるのだが、彼女はいつも新鮮な野菜をふんだんに使うのがありがたく、おかげで、今年に入って二ヶ月以上も怪しかった胃の具合がすこぶるよくなり、何を食べてもおいしい。
ミラノに帰る日の朝、野菜を摘みにいかない?とさそわれ、ご主人自慢のブドウ畑に車で出かけた。

丘の頂上のその場所は栽培環境の最高条件を満たしている。
但し、収穫のとき、人手が足りているとはいいかねる状況らしい。

およそ、小一時間かけて、丹念に野草を摘む、その執念といえるほどの節約魂にわたしは圧倒された。
春の七草というような種類、わたしにわかるのはネギの子分みたいなノビル程度。
一方、庭に野菜やハーブ畑もあるのだが、手入れが行き届いていないので、荒れ放題、使えるのはハーブのサルビア(セージ)ぐらいだ。

ミラノへ帰る直前、隣家に声をかけると言ってドアを叩く。
85歳の女性が94歳の病身の夫を介護している。
出てきた人は若いときはさぞ美しかっただろうという面影があったが、すぐに目をうるませて、辛い状況を語りだし、奥さんのしゃべりはまたとまらなくなった。
なんでも昔はヴァイオリニストで、ストラディヴァリを奏でていたのだそうだ。
ピエモンテのこの村、介護制度などまったくなしで、あたりの住居は閉じていて、定住者はいない。
以前はトリノの王家の末裔も別荘にしたほどの風光明媚なところで、観光客が途切れない、素晴らしい山上の修道院『クレア』もあるが、人間、景色だけでは生きられない、サポートすべき生活環境が機能していない悲劇を垣間見た気がした。

摘んだ野菜はミラノまで運ばれ、水に放たれて生気が戻り、見事なサラダになった。

2011年4月 4日 (月)

村のイベント

夫妻の村の別荘はご主人の実家だったところだそうで、石造りの広壮な二階家。
ゆったりしたベッドルームが5室、好きなところを選んでいいというので、食堂とバスルームに隣接する小さめの部屋にする。
バスルームと言っても狭いシャワーだけ。
シャンプーもむずかしそう。
一階のサロンは広いのに、ものが雑多におかれていて、くつろぐ場所ではなくなっている。以前は立派に機能していた家なのだろうが、この妻のほうが年上の72歳と70歳の夫婦、生活そのものに疲れがただよっている様子が見えはじめた。
奥さんはそれでも主婦業の食の部分はまだしっかりやっていて、具沢山のミネストローネやミラノ風リゾット、チキンの煮込みなど、味のよいものを億劫がらず作りだし、後片付けも手伝いを拒否して、手早くすます。

翌日は村のイベント、スポーツ競技や、手作りの物産の即売会、ワインはその即売会のほうに出品するので、早朝から運搬に忙しい。
それなのに、ひっきりなしにかかってくる電話に出るとしゃべりだしてとまらない奥さんにいらいらして、ご主人はついに怒りを爆発させ、見ていて気の毒になってしまった。
車で十分のところにある村で唯一のレストランの中庭が会場。
テントの中で、手作りチーズ、石鹸、オリーブオイル、パスタソースにする瓶詰め類、骨董道具類、バスケット類、菓子類などの店が並ぶ。
彼らのワインの出店だけはテントの外のレストランの入り口で、ちょっと不遇な気がした。
青いユニホームのチアガール三人があまり上手とは言えないバトン演技を披露。

そのあと、思いがけなく初老の紳士が近づいてきて、わたしにインタビューしたいと申し出た。
地方新聞記者だという。奥さんが通訳してくれて、今回の地震、津波のことを英語まじりのイタリア語で語らされるはめになった。
時差ボケ頭はうまく回転せず、聞き取りもむずかしく、イタリア語の限界を感じつつ、東京で経験したこと、半世紀以上まえに人災である、戦争で焦土に立ちすくんでから、日本は見事に復興した。今回は未曾有の天災であるが、耐えて立ちあがれる日本の力を信じたい、というようなことを話したように思う。
彼はうなずき、これがヨーロッパに起きていたら、人々は立ち上がれないと言った。

2011年4月 3日 (日)

ピエモンテへ

今回のミラノホームステイ先はピエモンテ在住の日本女性からの情報によるもの。
わたしと同年輩のミラノに住むイタリア人夫妻がピエモンテにブドウ畑を持ち、定年退職後ワインを造っている、奥さんは教師をしていた人で、イタリア語を教えてくれるという、写真つきの紹介記事を信頼しメールを出してみたのだった。
すぐに丁寧な歓迎の返事をもらって、そのあたたかい行き届いた内容に、これだと即決した。
よしんば何か不都合なことが起きても、ミラノには去年来日して一ヶ月日本旅行をしたとき案内役をしてあげたブリッジ仲間のイタリア人男性たちもいる。
訪ミラノを待ちかねているという返事をもらっているので、なんとかなるだろうと楽観できた。
リナーテ空港には写真どおりの二人が待ちかねていて、抱きしめて歓迎してくれた。
フィアット車で連れていかれたところは意外と質素なタウンハウス、あたりはアパート群が立ち並び、ミラノのベッドタウンのような新興住宅地である。
家の中もイタリア人にしてはあれあれという雑然とした感じ。
ドアにはまだクリスマスの飾りの一部がひらひらしていた。
わたしの部屋は二階で、現在は結婚してハーピストだというお嬢さんの部屋だったところ、となりにバスタブつきバスルームがあってわたし専用だというので、まずは安心。
一時間後にピエモンテに出発、もう少し休みたかったが、仕方がない、半日予定を遅らせてしまったのだ。
明日は特産品を競う村の行事でワインを出品するという、ご主人はそのことで頭が一杯らしい。
車の中で眠ってしまうのではないかと思ったが、車窓から見える景色が起伏の多い美しい田園風景に変わるにつれ、目を奪われ、眠気はさめていた。
村の手前のモンカルヴォという城のある街で車がとまる。
夫妻は迷わず教会へ。
ミサが始まるところだった。古色蒼然とした内部だが、ほぼ満席、荘重なパイプオルガンの音が響きわたる。
奥さんのガイドでミサの進行が理解できる。
隣のご主人、すごい美声のバリトン、イタリア人の男性というのは本当に天性の美声の持ち主が多い。
司祭のなめらかな、ひびきのよい声に守られながら、日本で被災された方々のために、そして日本の復興を願うために心をこめて祈ることができた。

2011年4月 2日 (土)

ミラノまで

ホテル前に来るという早朝7時40分のバスに乗るため、シャワーをあび、階下のレストランで朝食をとる。
ゆうべ着いたときは古びた、暗い、冴えないホテルだと思ったが、朝食は非のうちどころのないイングリッシュ・ブレックファスト。
豊富なフルーツ、三種の玉子料理、ベーコン、ソーソージ、ハッシュドブラウン・ポテト、マッシュルームつき、サラダ、ジュース、ヨーグルト、シリアル各種、そして数種のパン、どれもすこぶる味がよく、元気がついた。
予定半日後れになったけど、体力を快復するにはロンドン一泊、結果的によかったと思うことにした。

バスはチャーターを期待していたのに、そうではなく、路線バスとわかったので、配布されていたチケットは無駄になったが、スーツケース二つで乗り込むのは無理と判断し、急遽タクシーを頼む。大型ベンツがきて、空港まで目と鼻の距離なのに13ポンドもとられた。

チェックインがまたまた難儀。三箇所も窓口変わり、しかもインターネットチェックインに時間がかかる。
手伝ってくれた男性は日本語で、元気ですか?なんて話しかけてきたのだが、あまりもたもたしているので、大丈夫?と訊いたら、元気です、という応え。
つまりfineは<元気>と思っていて、OKの意も<元気>でいいと思っているというその程度の日本語。

セキュリティがすさまじくきびしい。液体の入ったビニール袋を二度もチェック。女性係員に体全体をくまなくさわられた。

ヒースローは嫌いだ。トイレもわかりにくいし、電光掲示板の出方が遅い。
あと50分というとき、前にいた白髪のオジサンがア・ドゥエ(二番ゲート)と言ったので、もしかしてミラノへ?とイタリア語で訊いてみたら、そうだと言うので、一緒について行けて心づよいわ、と言ったら、そばの奥さんがどこから?と訊くので、ジャポーネと応えると、目をうるませてしっかりと肩を抱いてくれた。
このご夫婦はミラノ、リナーテ空港に着くまでやさしい笑顔を送り続けてくれた。

2011年4月 1日 (金)

旅立ち

羽田早朝六時半発のBAは急遽成田発に変更になり、乗客全員バスで輸送される。
成田に着いても十時発がさらに後れ、十二時発香港経由となり、八時間以上を空港で過ごしてからの離陸。
なんでもBAが乗務員の宿舎を香港やソウルに移したせいで、こういう航路となったらしい。

左隣は二歳半の男児を連れたデンマーク人女性、右隣は赤坂で働いているという英国人女性、そのまた隣は日本人と結婚しているスペイン人女性で、わたしがこんなときに旅行をするやましさを秘めていると語ったら、自分たちみんなも日本から逃げていくような後ろめたさを共有している、日本が好きだ、残っていたいのに、と語った。

二歳半の坊やはよく耐えていたが、ちょうど乳児から幼児に変わるこの時期の難しさもあって、むずかり始め、あまり母親が手を焼いているようなので、三色ペンを出して紙に書かせて遊ばせたら、大人しくなった。
イギリス人もスペイン人も協力しはじめ、ちょっとしたにわか保育園の状況。
通常機内では、映画を見るのに、時間の経過がこんなことで早まったような気がする。

ロンドンヒースロー空港着が真夜中、BAの手配の空港近くのホテルへ移動。バゲージクレームしたスーツケースも引き取って、バス乗り場までかなり歩いたので、気は張っていたものの、よれよれに疲れていて、部屋に着くとすぐ、バスに浸かってベッドに入る。
それなのに、緊張しすぎて目が冴えて寝付き悪く、結局は誘眠剤に頼ることになった。

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