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2017年4月25日 (火)

I am still useful......?

思いがけぬ仕事の依頼がきた。
ある学校で、日本語の待遇表現の講義をしてほしい、というのである。
体調やら、足の具合やら、そのときになって何が起きるか怪しいのだけれど、あなただから、できる仕事とおだてられて、重い腰をあげそうになっている。

捨てずにとってあった、三十年まえの手作りテキストを取り出してみたのだが、内容は実にしっかりしているものの、手書きのものが混じっているし、いかにも古めかしいので、以前所属していた日本語学校にもっと改良された出版物が出来上がっているのではないかと問い合わせてみたら、そういうものは存在していなかった。敬語表現教授の依頼もなくなっていて、外国人から敬語をおしえてほしいという依頼が時たまあるくらいだという。
その担当者が、文化庁が出している『敬語の指針』を読むべきだとおしえてくれたので、とりよせてみた。

そこでわかったことは、待遇表現はいまや会社、あるいは団体で、マニュアル化したものをおぼえるだけになったらしく、基礎練習ができていない、という事実である。

だからテレビの出演者や、アナウンサーの間違い敬語、公共の場でのアナウンスや、国会の質疑応答にまでおかしな待遇表現が続出するのだろう。

いまから四十数年まえ、アメリカで暮らしたときに、知り合いになったタフト大統領の姪にあたるというスタッフォード夫人は、あのころ七十代だったと思うが、文才もあって、料理も上手、質の高い暮らしをしていたひとだった。彼女がよく言った言葉”I am still useful” 、わたしもそれが言えるかどうか、まだそのときになってみないとわからない。


2017年4月24日 (月)

きょうの話題

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黄モッコウバラ、今がピーク、黄色という色はとりわけ好きな色ではないが、花の黄色は見るととても華やぎ、心が浮き立つ。義母が黄色いバラが一番好きというので、誕生日や、母の日など折節、プレゼントしていたけれど、彼女のいう黄色いバラは黄モッコウだったのかも、と今になって思ったりする。

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このおしゃれな缶、おみやげにもらったのだけれど、あら、ステキ、なあに?と訊いたら、サーディンよ、という答えにびっくり、マルハのオイルサーディンであった。くれた相手がおしゃれですべての暮らしのセンス抜群、ついつい、見とれてブリッジの判断をあやまりそうになる、わたしの自慢のパートナー。
きょう早速食べてみたら、輸入ものに負けない、いや勝るぐらいの立派なシロモノ、ついつい、缶の三分の二ぐらい平らげてしまった。

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その彼女がひどい風邪というのを聞いて、おくればせのお見舞いに持って行った、わたしの自家製ふりかけ、有本葉子さんのレシピなのだが、セロリの葉とかつぶし、白ごま入りのものである。
かつぶし大匙2の醤油まぜ、セロリの葉それぞれを、オーブン70度20分、それをもんで、白いりごまをまぜるというもの。
「なんとも言えないまろやかな味つけが食欲を促進してくれて・・・」という感想であった。

2017年4月19日 (水)

春爛漫

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一昨日の夜は嵐だったが、花たちはよく耐えて、まさに春爛漫、一番手前の小さいパンジーはご近所の教会の友人がタネから育てたもの、よく水を欲しがるけれど、花がどんどん増えて、見るたびに彼女のことを思い出して心が温かくなる。
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今年のモッコウバラの花つきがスゴイ。お隣の家は完成して、日当たりが心配だったが、まったく影響なし。
花を見ていると、家にいるのが楽しくなって、外出を減らしたくなる。
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冬を越した宿根草、これも今年の咲きっぷりが見事。
全体にウッドデッキの色調は満足のいくものになった。

2017年4月14日 (金)

続、おくる日に

「いいお式だったわね」教会員の友人と話しあいながら帰途についた。住まいが徒歩距離のそのひとと別れたとき、うしろから一人の女性が追いついた。いつか折があったら、ゆっくり話をしたいと思っていた、大学の二年先輩のひとだった。礼拝にはいつもご主人が一緒だったので、話しかけにくかったのだ。

彼女の妹さんとは中高が一緒で大学の科は別だったが、いろいろ接点があった。その妹さんは二年まえ急逝してしまった。そのことについても話したかったのだが、わたしの中学からの大親友だったひとがお嬢ちゃんを附属の幼稚園に入園させてまもなく急逝してしまったとき、さっき追いついたその彼女のお嬢ちゃんも同じ幼稚園だったことから、車での送り迎えをずっと援助されていたことを、聞いていたので、そのことにも、感謝の気持ちをあらわしたかったのだ。

わたしたちは、どちらから言いだしたのでもなく、しぜんに、お昼を一緒にしましょうということになって、駅中のベーカリーに入った。
そういえば、その場所は故人のお気に入りの場所でもあった。最後に見かけたときの彼女は、教会のお葬式が重なったので、婦人会長として、義務を果たさなければならず、本当に疲れたと言っていた。あのときのこわばった表情は今でも目に焼き付いている。

わたしたちはいろいろなことを話した。お互いの共通の話題には、不思議と必ず故人が登場した。大学生活のこと、親戚のうちから通っていた故人は薪でお風呂をわかすような生活をしていて、苦労もあったが、いつもほがらかで、教会生活や、自ら選んでかちとった就職先の日常などが、本人以外の人の口から語られる今だからこそ、よりあざやかに浮かびあがった。

わたしたちのお互いのことも飾らず、ありのままの自分のことが話せる雰囲気のままに、教会生活で出会う困難のことも語ることができて、話し合ったあとは、なんとも言えない心の安らぎを感じた。

「これも彼女のお引き合わせなのでしょう」それが共通の感想だった。

生前、そのひとのことを知りたかったのに、そのチャンスに恵まれなくても、そのひととかかわったひとの生活を知ることから、直接本人と語りあうよりもっと、強烈に故人のイメージが描かれることもある、そのことを、まるで故人がプランしてそうさせたような巡りあわせを、実感した忘れがたいひとときであった。

2017年4月13日 (木)

おくる日に

願わくは、花の下にて、春死なむ、という西行のうたを実現したような、友の訃報であった。
前日教会の婦人会で会ったばかりだったので、すべての会員に衝撃が走ったと思う。

大学の同窓であると知ったのは四年前、洗礼を受けたあとのことで、大学時代は科も違うので、出会ったこともなく、未知のひとだった。
彼女はすでにこの教会員として五十数年、多くのひとの信望も厚く、まぶしい存在であって、羨望を感じた。
独身を通した彼女はキリスト教系の団体でキャリアを得、外国にも歴訪し、楽器を弾く趣味もあり、恵まれたホーム暮らしをしていた。
死因は誤飲からくるものだったらしいが、同い年のわたしも近頃、よくむせたり、なにも食べていないときでも、長電話の途中で突然咳き込んだりする。自分に同じようなことが起きても不思議ではない、同年齢なのである。

訃報を聞いてすぐに思ったのは、大学の同級生に知らせたほうがいいのではないか、ということだった。婦人会の幹事に了解を得て、大学の名簿をたどり、名前を憶えていた附属出身のひとに電話した。「そのひと、知らないから・・」という応えに、驚きもしたが、卒業後六十年近くでは、そういうこともあろうかとも思い、次のひとへ・・・「うち、今大変なの、夫が胃がんで、娘が乳がんで・・」という返事で、また次のひとへ。今度は「確かに承りました。責任をもってお知らせします」という応えにようやく安堵。

葬儀の日は久しぶりの晴天で、教会近くの桜並木は見事に名残りの花を咲かせていた。
礼拝堂が満員になるほどの参列者、讃美歌の選択もよく、パイプオルガンが美しく鳴り響いた。お説教も故人とのエピソードが語られ、感動をさそった。

大学の同級生は十人近くが来てくれていて、みなわたしを探し、手をとって「よく知らせてくださいました」と言ってくれた。
「棺にお花を供える最後のお別れがあります」と言ったのだが、「いいわ、可哀そうだから、見るのがつらい・・・」と応えたひとの気持に同感するものがあった。
ご主人とお嬢さんが癌をわずらっている、と言った同級生まで来ていて、事情を説明してくれた。
なんだか、大学魂がよりそった気がした。(続く)

2017年4月 9日 (日)

ティータイムにはこれを

コーヒーは朝飲むので、午後は紅茶を飲みたい。それもミルクも砂糖もなしで、フレーバーのいいもの、とりわけ好むのがアールグレイとシナモンティー。
英国なら、ビスケットを添えてということになるが、ビスケットのおいしいものは、日本ではなかなか見つからない。クッキーは甘すぎるものが多くぴったりしない。

と、いうわけで、ケーキはよく焼いていたのだが、もっと手軽なものをと考えて、英語で言うところのbars、バーズという、形式のものに変えてみた。

つまり四センチくらいの深みの四角い焼き皿に入れて焼く、分量がフランス風に言えばキャトルカー、出来上がりのもので言えば、ブラウニー的な焼き上がりのものである。
キャトルカー的分量、すなわち粉、バター、砂糖、すべてが同量で、普通のケーキの二分の一くらい、それに玉子一個。
バターをかきまぜ、砂糖を入れ、玉子加え、粉(ベーキングソーダ(パウダーでもいい)と塩少々、好みに応じてスパイス)これでクッキーを焼く温度と時間に設定して出来上がり。
慣れると、三十分もしない早業で仕上がる。簡単だから苦にならない。
フルーツケーキ的なドライフルーツ、レーズンなどを入れたものや、バナナケーキなどもこの要領で。チョコレートでなくココアでつくる、あっさりブラウニーもいい。

とりわけ満足しているのが、ジンジャーブレッド。モラセスという黒蜜とジンジャー、シナモン、ときにはクローブなども加えて風味よく、焼き上げる。006

出来上がりを四角く切りわけると十六個になり、三、四日はもつ。
バターはケーキ用マーガリンの半本、砂糖はきび糖、玉子一個、ともかく、楽チン、倹約スイーツである。

我が家はほとんど外食しないし、一個四百円以上もするケーキなど買ったことがないので、食費のあまったぶん、近頃はタクシーをよく利用している。

2017年4月 5日 (水)

近所の桜

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きのう、教会の婦人会の帰り、多摩川台公園を通り、六郷用水沿いの道を通って、花見をしながら帰宅した。
多摩川台公園は五分咲き、くらいでがっかりした。もしかすると木が老木になってしまって、咲きっぷりも弱弱しくなってしまったのかも・・・六郷用水沿いも満開にはもう一歩という感じ。

東光院のそばにカメが生息しているのを、ほとんど動かないのに、見続けてしまう。
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桜坂もまだ咲ききっていない。週末はカップルでにぎわうことだろう。

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聖ヨゼフ修道院わきの、この枝垂れはなかなか風情がある。シスターたちはどう思っているのだろう。

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きょうの密蔵院の枝垂れが一番見事だった。ピンクの濃淡が何とも言えない春を感じさせてくれる。
でもわたしはこのあと、接骨院へ。


2017年4月 3日 (月)

二本杖の効用

夫の『ポールウオーキング』の日はあいにく雨ふりで、文化センターの体育館に50名集合、太田区長や消防署長なども招かれているというイベントであったという。

・・来賓の話が長くってさ、そのあいだ、立たされてるわけだろう? 疲れちゃったよ・・それでやっと始まったはいいけど、延々と歩かされて、ただ歩いてるだけじゃ、つまらないから、シリトリしましょう、なんて言われてさ、スズメ、メガネなんて言いながら、歩いてたら、もうやんなっちゃってさ・・・
シリトリ言わされながら慣れない歩きをさせられている夫を想像して、吹き出しそうになったが、わたしは心から同情した。

参加者は圧倒的に六十代と七十代だそうだから、夫などは最年長だったのだろう。
ポールを使うのは歩きにくいことがわかったとかで、彼はこれまでの杖とわたしがアマゾンで買った杖との二本を使用するようになった。安定感の良さは実感したということだろうか。

そして、もう一つ新しく買ったものがバックパック、蒲田で着脱が楽な紐の細い、とても形のよいリュックを買ってきて近頃その出で立ちで、図書館などに出かけている。

もうポールウオーキングのイベントにはいかないと言っているが、ケアマネージャーさんのすすめもあって、出かけたことは、ともかくも、よい変化をもたらしたように思う。

2017年3月31日 (金)

続、続、あのときのこと

今回のフランチェスコ・ローマ教皇のミラノ訪問の詳細をもう少し知りたくて、グーグル・イタリアを検索してみたら、最初のリナーテ空港近くの団地の訪問先は、確かにあの団地の一角なのだが、老朽化しているアパートに居住し、高齢化や貧困、病気などの問題をかかえているイスラミック系の移民の家庭だとわかった。
欧州最大の問題の一つでもある難民受け入れと、テロ攻勢をけん制する目的も含まれているのではないかとも想像できる。Photo


そのあとはサン・ヴィットーレの刑務所で、百人の受刑者と50メートルもの長テーブルでランチを共にしたという。

社会的な弱者に寄り添うという教皇の強いメッセージが伝わってくる。

午後は近郊のモンツァ公園で一般市民100万人とミサを、そのあと、サッカー場では少年少女80000人を集めての集会。Photo_2


これまでとは異なる、親しみやすい、エネルギッシュな教皇のスケジュールであった。

2017年3月30日 (木)

続、あのときのこと

ミラノ、リナーテ空港には写真とそっくりの夫妻が笑顔で待っていてくれた。
日本が大変なときによく、無事に来てくれた、といってしっかりハグしてくれ、うれしかった。だが車でわずか五分ほど、着いた先は、送迎料70ユーロにしてはちょっと近すぎるという感じがした。

しかも、集合住宅地のようなゴミゴミした中をとおって、同じような一戸建てが沢山あるエリアのその一軒はかなり古びていて、中も雑然としている。古新聞が積み上がっていたり、クリスマスの飾りがまだぶらさがったままだったりしていた。

わたしの部屋としてあてがわれたのは、娘さんの部屋だったという二階の個室、ベッドは柔らかすぎて、寝心地はイマイチ、バスタブつきの浴室がそばだったが、ドアはしっかり閉まらない、かなり老朽化していた。

夫妻に感謝したのは、ピエモンテの別邸に行く途中、教会のミサに連れていってくれて、日本のために祈ってくれたことだ。あれほどイタリアの荘厳な教会での祈りの効果を実感したことはなかった。
もうひとつの感謝は、料理上手な奥さんのめずらしくておいしいメニューの数々、節約精神豊富で摘み草のサラダなども並ぶ。
けれどもキッチンの料理器具は何もかもが古びていて、包丁の切れ味もこれ以上ないほど悪く、ガスの火もなかなかつかない。

奥さんは元教師で、詩作もしているし、翻訳経験もあり、なにかの社会活動の役員もしているひとだったが、自分の自己実現に忙しくて、家の手入れや掃除にまで手がまわらないのだった。

ホームステイの応募者は数限りなくいたらしい。それをポケットマネーにしなくてはならないほど、経済状態は逼迫していたのか、知性維持が優先する、同年代のイタリア女性の暮らしの苦労を知った経験でもあった。(続く)

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