2024年5月 9日 (木)

ベートーヴェンを知る

今、毎日ベートーヴェンのピアノソナタを聴いている。弾き手はアルゲリッチの元ご主人、この人の名をカタカナにしようとしても、今有名でないのか、出てこない。でも、強弱見事で、弾ききっている。一日に一枚ずつ、途中でやめても、またそこから聴けるので、ベートーヴェンの世界に浸れる。

それぞれのフレーズに、感情が出ていて、ベートーヴェンに癒される。この弾き手がスゴイので、一層小さな曲でさえ、うっとりしてしまう。なんと素晴らしい曲集だろうか。

一体どういうときに書かれたものなのか、ベートーヴェンの生涯なるものを知りたい、と思い、図書館でベートーヴェンと言うタイトルの本を借りてきた。ところが、これは生誕250年の特集の本で、いろいろな人がベートーヴェンについて書いているのである。でもその生涯を語っているものもあるので勉強になった。

いわゆる評論家の語りは面白くない。いちばんわかりやすかったのは、野村あらえびす(胡堂)氏のヒストリカル評論、感動したのは、荻 昌弘氏の『絶対という課題』、彼は映画評論家として有名だが、文章の達人だから、どれほどベートーヴェンに感動するかを、身をもって語り、うん、うんとうなづきながら読み進んでしまった。二百年まえに生まれたあのひとがウイーンという街でどうしてあれほど個の課題をつきつめたのか、という疑問はスゴイと思った。

このあとに書く人はつらいだろう、と思ったら、評論家の福永楊一郎氏だったが、それを正直に語っていたから、やっぱり、と思った。

みなが、ベートーヴェンを素晴らしいとほめている。ほめくらべである。フルトヴェングラーはベートーヴェンを彼のベートーヴェンにした、と言うのが、どんな風に?と思って、聴いてみたくなった。

2024年5月 1日 (水)

夫の遺影

十年ぐらいまえの野球部のユニフォーム姿である。本人が喜んで着ている姿だからか、良く似合っている。

少し笑みを含んでいるような顔。わたしが外出から戻ってくるとまず目がいく。お帰り、と笑顔になっているのがわかる。

彼の眼は最後まではっきりしていた。酸素吸入していたときも、もう半分くらい向こうに行き掛けていたのに、目だけは、しっかり何かを見つめていた。そんなに苦しそうに息をしないで、いやだったら、やめていいのに、真面目なのだ、それがつらい。病院で決められたことを、しっかりしていこうというのはまじめな証拠だ。どこにいっても、困らせる患者ではなかった。それがつらかった。

もうすぐ四十九日の法要がある。一日五十万と言う値段に驚いたが、それに見合う生命保険がきちんとかけられていた。ここしばらくは保険と死の直前にもらった二か月分の年金でやっていける。

ありがとう、あなた。

 

2024年4月26日 (金)

二代目、あんこ

お向かいの家はこの辺では、かなり古いが、高台で陽当たりがいいので、植物の発育が素晴らしい。いまは赤いツツジと、ピンクの名前は忘れtが、花だけが一面に咲き誇る、樹があって、それが二つまばゆいように、ピンクの濃淡を見せている。

黒い犬がいて、あんこ、と言う名がついていた。二代めも似たような犬で二代目あんこである。ご主人は花の世話と、犬の散歩が主な仕事で見事にこなしている。

このところ、散歩姿を見ないので、どうしたのかな、出逢った時に尋ねたら、死んだんですよ、と言う返事でびっくりした。

高台の家は急階段がついていて、あれは年取ったら大変だ、と思っていた。

そういえば、散歩がえりの犬が、登ろうとしないときがあった。あれは、死期が間近かったのだろう。

人間でもわたしたちの年頃だったら、尻込みする急階段、今になって思い当たる出来事だ。

あんこは、三度ぐらい拒否していたが、最後に上った。

2024年4月20日 (土)

火葬の日

子供たちが決めた一番早い日は、五日後の午後、大田区平和島にできた新しい火葬場と言うこと、良く知っている桐ケ谷でないことが不安だったが、費用が倍くらい違うことと、一週間ぐらい待たされるのを知ったので、新しいところに決めたのだが、これは成功だった。夫の死に化粧を頼んだことも、よかった。ごく自然に見える安らかな顔で、眠っているように見える。霊安室に寄って、お別れをすます。夫の好きなものすべてを入れる。そして一番先に着いた花一式を持っていったのでそれを、すでに置かれていた花に加えて、皆で飾った。

そこから火葬場までは、二十分ぐらい、すべて娘の車が私と、息子と孫息子を乗せて走る。火葬場のある式場はとても新しい立派なところで、心配していたのだが、杞憂に過ぎなかった。夫の甥と、私の兄嫁とその息子、7人だけの葬儀、必要なことだけをする。最後のお別れ、焼き終わるまでの一時間を、飲み物を飲みながら、待つ。兄嫁とは一年ぶり、その息子とは三年ぶりぐらいだったが、話しはじめたら、会わなかった時間の長さは消えていた。

焼けた後の骨の説明、それを聞いてから、箸を持って二人一組で一度だけ、骨を拾う。残りは係の人がすべて壺に入るまできれいに入れて終わる。

骨壺は息子が持った。家までおよそ一時間、わたしたちは、それぞれの疲れをとるために、すぐ労をねぎらい、別れた。

2024年4月16日 (火)

その日

午前中は絶対に病院に行けるはずがない娘が、そこに出かけていて、夫の呼吸が苦しそうだったこと、寒くて震えていたこと、などを書き記してきて、今日あたりが危ないと、言ってきたのに、驚いた。

わたしも自分自身がふらふらしていて、危なっかしいのに、それを聞いて取るものも取り合えず、夢中で電車に乗ったのだった。

夫は酸素吸入を口からしていて、息を合わせるのにやっとのように苦しそうに吐いていた。あとからご両親がなくなるまでそういう状況で、見ているものは苦しそうに思うが、してもらっている者はそれほどではないということは、知らされたのだが、そのときは、夫が一生懸命、ついていっているように思われ、辛く思ったのだった。夫の手をしっかり握って、声をかけ、励ました。およそ二時間、その状態で、止まったときが、危ないということも教えてもらったけれども、それ以上は自分が倒れそうで、息子にあとを頼んで、帰途についた。

そんなに差し迫った状況ではない、と、思った。強い人なのだ。こんなに頑張らなければならない状況にきている。でもがんばっている。涙がとまらなくなった。

夜の九時前、息子から息が止まったことを知らせる電話がきた。お医者さんが呼ばれている、と息子は言った。

わたしは、泣きながら黒い上下に着替え、呼ばれるのを待った。

息子と娘は二人で、夜中すぎまで、今しなければならないこと、を決めるため、わたしを呼ぶことを避け、二人で耐えてくれた。

2024年4月10日 (水)

久しぶりの外食

珍しく、娘からの誘いで、孫娘が出てきているから、夜の食事を外で一緒にしないかとラインがあった。 

しかも、昼間は夫の病院に行ってくれるという。私には休んでくれていいという有難い申し出だった。

場所をどこにしようかと言う話になって、近場の自由が丘で、待ち合わせも南口にしようということになった。

三人で外食なんて、一年ぶりぐらいだろうか。ここなら絶対おいしいという、スパゲティ専門の店にしたのだが、わたしはノロノロしていて、ナスベーコンのに決めたのがやっとで、彼等のようにデザートまできめておくのを、しないでいたので、娘が自分のプディングを多すぎるから、と言って半分くれた。

混んできて、騒がしい中で、気づいた。左の耳がほとんど、聞こえない。向かい合っている二人の私語はほとんど聞き取れなかった。そのことを娘に言ったら、そうみたいね、とわかっているのを、言われてしまって、このところ、老いを感じることが多く、情けなく思った。

もう86歳なのだから、仕方がない。

ときどき自分の手を見る。なんと、青い血流の空けた哀れな手であろうか。こすって、マッサージをして一瞬何もないかのような手になるが、すぐまた元のあわれな手に戻る。

よく働いた手だ。以前はピアノまで弾いていたのだから。

料理が得意の手でもあった。

近頃は料理の作り方を忘れる、手でもある。すぐパソコンの前に座って、グーグルを呼び出す。一度見ただけではダメで、二度、三度と見直す。それが面倒だから、作るのを辞める、というのではない。自分の味は絶対においしいから、何度でも見直して、完全な、いや、完全に近いものをつくる。

これが面倒になってしまって、何もかも、面倒になってしまって、老い逝くのはいつのことだろう。

 

 

2024年3月31日 (日)

イースターの日に

新しい教会に転会を果たした。クリスマス前から一日も休まず、通うことができ、一週間まえに転会の礼拝があり、歓迎の花束と、色紙を頂戴した。その四日あとの夜の礼拝で、証(あかし)を果たすこともできた。

この教会が見つかったのは、四国の友人がメールをくれたからである。副牧師夫妻が見えている。大田区だから近くの教会なのではないか、と。なにか、ピンと響くものがあった。すぐネットで調べて、教会の礼拝を経験した。お説教がいい、聖書に今が、重なってくる。聖書が生き生きとしていて、読み返してみたいとさえ思う。

思い切って牧師先生にうかがってみた。転会の意思があるのだけれど、受け入れてくださいますか?思いがけなく、いいですよ、の即答。それから転会の意思を証明するべく、ずっと通う。

その間、夫は二か月肺炎の疑いで入院、そこが救急病院なので、介護があるところに変わらねばならず、一週間まえに、介護施設のほうに転院。あわただしい日々だった。でも、転会が定まり、そこでの、礼拝のプログラムの素晴らしさに慰められ、今日のイースター礼拝も最後の軽食つきのプログラムも楽しく、ひととき、夫のことは考えずに済んだ。

夫の介護付きの病院は息子と娘の判断が正しく、いい選択だったと思う。夫の衰弱ぶりはひどいが、点滴をやめられないうちは、生きさせられてしまう。苦しみながらではあるけれど・・・だれも、尊厳死のことを理解できるひとがいない。今回、わたしと夫は数十年まえに二人で約束して、書類をつくったのに、病院で理解するひとがおらず、結局、点滴を辞める判断ができるところでないと、何にもならないことわかった。

 

 

2024年2月27日 (火)

衰える夫に目をやりながら

この二日間は病院へ行かなかった。というよりは、行けなかった。

あまりにすごい風に飛ばされそうになったからだ。何だか天候にもたたられているようだ。

夫は眠っていることが多い。喉がひくひく動く。痰がうまく出てくれない。

その割には苦しそうではない。

今日から、何か食べさせてもらえる、と訊いた。痰を出させてもらえなければ、だめなのだろう。

もう三週間がたった。どうなるかは、はっきりしない。

わたしは洗濯物を運ぶ役割をしている。疲れているときは、息子に代わってもらっている。

夫のことを考えないときはない。でも考えてもどうにかなるものではないので、すべきことをきちんとできるようにしている。

そして、夫が苦しむことがないように、と祈るだけである。

 

2024年2月23日 (金)

突然の中止

退院の準備が整い、午後の一番にきまった。

ところが突然の発熱、この先の予定は立たない、という連絡があり、茫然となった。

すぐかけつけてみると、本人は眠っていたが、ほどなく目を覚まし、帰りたいよ、と言った。

その言い方が、元気な時と違っている。目に力がなく、すべての元気が取り去られたようだ。

喉が渇いているようだったので、いつもの気に入りの飲みものを一口与えた。

ところがすぐには飲めず、嚥下にひどく苦労する様子で、胸がどきどきした。

なにか大変なときが迫っているような気がする。

 

 

 

2024年2月20日 (火)

早くも退院

夫は大学に在学中、野球部に所属していて、何かが起きるたびに、鍛え方が違うと、自慢するのが常だったが、その割には早く歩けなくなってしまった。肝心なところが弱かったのは、期待はずれだったが、でも身体の芯が強いらしく、もうダメかと思うといつも、立ち直って戻ってくるという具合だ。

今回はもしかしたら、このまま逝ってしまうかも、と思われたが、病院に行ってみたとき、身体のあちこちに管がついていて、戸惑っている感じが可哀そうで、何とかして戻ってきてほしいと願っていた。

その通りになって、明後日退院と言う勧告が出た。病院往きは息子が主にしていたのだが、汚れた衣類を四枚ぐらいかかえてきて、大変だよ、これが続くんじゃ、と言ったので、翌日、それを見定めに、出かけてみたら、今度はこざっぱりとしていて、四皿すべてドロドロ食というのを、美味しそうに食べていた。汚れものも二枚だけ、先回はたまたま、点滴中で、入れたものすべて、排泄と言う具合だったのだろう。孫娘がついてきてくれたのだが、荷物はすべて持ってくれたので、助かった。帰りはお腹が減ったので、タクシーも彼女に呼んでもらい、田園調布に出て人気のカフェで遅めのランチを食べた。

大変なのは、覚悟の上、手伝ってくれる人たちがいる。感謝しつつ、毎日を過ごそうと思う。

そう覚悟したのは、石川結貴著、『家で死ぬということ』を読んだからだ。ひとり暮らしの親を看取るまでという副題がついているが、現実の詳しい記録のついた体験談が、詳細を極めているだけに、身に迫る思いがする。娘も言っていた。クラス会での話題で一番多いのが、親の介護だったそうで、介護が終わると、相続のことだという。

世の中平和になったから、もう戦争など、起きないと思っていたのだが、戦争は次々起きてやみそうにない。文明が進んだから、相続争いは昔のことかと思っていたが、永遠の争いごとのようだ。

人間が変わらないかぎり、争いごとも、終らないのだろう。

 

 

 

 

 

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