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2024年8月26日 (月)

具合の悪さ

内科は相変わらず空いていた。ここは先生が、白い紙を広げて、書きながら、説明してくださるので、何かとても安心できる。

一人男性が待っていた。先客も男性で、大声でしゃべっていた。そのひとはすぐ終わって、白髪頭の恰幅のいいひとだったが、寡黙な看護婦に向かってしゃべった。「本当に具合が悪いんだよね。ほんとなんだよ。家内にいくらいっても、わかってもらえない・・・」わたしはよっぽど、言ってあげたかった。

「ほんとにそうですよね、みんなそうじゃないんでしょうか?」

そのひとはずいぶんせいが高く、正面はわからなかったが、あの恰幅のよさでは、いくらうったえても、奥さん、わからないのだろう。いいな、具合が悪くても生きてられるんだから・・・

何にも気の利いた返事のできない、看護婦にいきおいよくそっぽをむいて出ていった彼。

さあ、次はわたし、便秘を先生の薬じゃなく、完熟アロエで治したことを、うまく話せるかしら?

2024年8月24日 (土)

務川さんのコンサート

唯一の外出先の教会でさえ、この暑さに負けて、休みがち、コンサートなど行けるだろうか。

その日も不調ではあったが、久し振りに会う友人との会話をせめてもの楽しみにでかけた。

おしゃべりは楽しかったが、食事がひどく、全部たべられずに残す。

サントリーホールは超満員、ほとんどが女性、プログラムは一番聴きたかった、ベートーヴェンのテンペストがバッハの次にあって、前半に聴きたいものが集中していて良かったと思った。

務川さんは出てくるなり後ろや横の席はほとんど無視、なんだか機嫌がイマイチ。

そのうえ、ピアノが鳴りだしたら、音がおかしい。かすかだが、不調和、調律のせいなのか、あのいつもの、澄んだ音が聞こえない。テンペストの聴かせどころも、あっという間に過ぎて、がっかりした。

休憩のときに、友人も音がおかしい、と言った。彼女は調律のせいではないか、と言っていたが、わたしはもうこれ以上聴いてもあとはショパンとフォーレが主だし、気分はよくない、もう、コンサートに来るのもこれが最後と思うほどで、先に帰ることにした。

帰宅してから、スティーヴン・コヴァセヴィッチのテンペストを聞いた。聴かせどころは何か所がある。それを、高みにもってきて、歌えばどれほどステキな演奏になるか知れないのに、残念だった。

この人間が住むのに極限とも思われる今年の夏は、あれほど聴きたい人が集まったのに、偶然が重なったのか、演奏をおかしくしてしまうほどの結果にわたしはショックをおぼえた。

 

 

2024年7月31日 (水)

茨木のり子さんの詩 (続)

茨木のり子さんの言葉の選び方には、育ちの良さがあらわれている。そしてそれはその時にふさわしい雰囲気をかもしだす唯一の表現である。

たとえば「女の子のマーチ」

男の子をいじめるのが好き

男の子をキイキイいわせるのは大好き

・・・・・・・・・・・

パパはいう お医者のパパはいう

女の子は暴れちゃいけない

身体の中には大事な部屋があるんだから。

静かにしておいで やさしくしておいで

・・・・・・・・・・・

おばあちゃまは怒る 梅干ばあちゃま

魚をきれいに食べない子は追い出されます

・・・・・・・・・・・

工藤直子さん曰く、茨木さんの詩はキリリと真面目で、格調高い世界と。

それでも読みながら、笑ってしまう。読みながら気楽にしてくれるものを持っている。どんなに長いものでも最後まで読ませてしまうものを。

2024年7月30日 (火)

茨木のり子さんの詩

恥ずかしいことだが、この歳になるまで、彼女のことを知らなかった。大写しになっている彼女の写真で始まる別冊太陽をぱらぱらとめくって、「わたしが一番きれいだったとき」という詩を見つけた。

この題に惹きつけられて詠み始めた一ページにわたる詩、それは題名から想像するロマンティックなものでなかった。

わたしが一番きれいだったとき

わたしの國は戦争で負けた

そんな馬鹿なことってあるものか

ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた。

・・・・・・

わたしが一番きれいだったとき

わたしはとてもふしあわせ

わたしはとてもとんちんかん

わたしはめっぽうさびしかった

 

だからきめた できれば長生きすることに

年とってからも美しい絵を描いた

フランスのルオー爺さんのように

                  ね

左パージは目のさめるように美しい着物姿の彼女がうつっている。彼女の詩にひかれた。そして最後の「ね」の位置にひかれた。

それ以来、この一冊は私の友人のようになり、彼女が料理上手だったことから、彼女の料理本一冊も手にいれて、毎日読んでいる。

わたしはこの詩のたたずまいに惹かれ、すっかり彼女のとりこになった。

2024年7月27日 (土)

みんな大変

夫の介護が長く続いていたわたしは、こういう運が悪いのは、自分だけだと思ってあきらめていた。ただ、夫の状況がどんどん悪くなってついにみとらなければならなくなったとき、慰めてくれる友人たちも、それぞれ、その人なりの苦しみをかかえており、それがこの年齢の持つ宿命のようなものだということがわかった。

今わたしはそこから抜け出し、毎日医者通いをして、自分の体がまだなんとか、持つ状況だということを確かめた。この猛暑のなか、内科の医師を変えて、自分の体に悪いところはないか確かめ、それを知ったのだった。

ありがたいことだ。あと三、四年は大丈夫らしい。

この酷暑のなかでは、出かけると燃えてしまいそうに暑いので、外出は夕方からにしている。

2024年7月17日 (水)

丑の日

うなぎが食べたいと、思ったら、テレビでやたらとうなぎの広告がでてくる。そうなのだ、今日は丑の日だった。夫がなくなって以来うなぎをたべていない。ウナギが好きな人だった。きょうは息子も外食だし、私一人で、外に食べに行くことはできる。でもなんだかそういう気持ちになれない。上着だけ着替えてみたけれど、もうそれ以上手が動かなくなって、やめてしまった。八月の丑の日に食べることにしよう。

昼食の時に買ってきたスープがまた残っているので、一人分のピラフを作って、出かけないことにする。外食をする、などはしゃいだ気持ちになれない。それに、夕食時にちょうど疲れてきていて、外に出る気がしない。友人から電話をもらったので、その話をしたら、夫恋しやっていう気持ちなのかな、と言われた。そういえば、スマホの写真を追いかけていて、夫が映っているのを四枚ぐらい見つけた。その顔にどことなく淋しさを見出し、もう、予期していたのだろうか、などと考えると、胸がいっぱいになる。そして、私が死ぬとき、夫の墓に入らないのは、たまらないだろう、などと考えてしまう。宗教はどうでもいい、その時自分がしたいようにしたらいい、と思うようになった。

 

 

 

 

2024年6月22日 (土)

雨の日の登録

寄りによってひどい天気で、しかも蒲田の奥のほう、いくら詳しい地図をもらっても、バスをたどっては無理そうなので、少し早めに出て、タクシーに並んだ。幸い順序よく乗れて、着いたの四十分まえ、想像していたのとは全く異なる情景でバスできていたら、まず迷っていたことだろう。

ようやく呼ばれて、男性の係員の前に座った。なんでも夫が登録しそこなっていることが残っていて、それを確認するためだということだったのだが、そういうことではないらしく、次々と書類を出しては、確認、そのうちの数通に私の名前と、住所を書くという作業はあったが、書類を確かめて、合わせるという作業が多く、そのうちのどれかを調べるという作業ではなく、確認と言う作業を次々として、最後にそれでは双方で同類のものを持っていることを確認して、九月から年金が支給されます、という文言を聞いたときには、やれやれそういうことだったのか、と終わったことと、役所の確認作業がいかに大変なものか、を悟り、安心と、疲れのいりまじったため息がでたのであった。

自分用の書類をうけとり、どちらの出口を?と聞いたのだが、あまり確実な道順は教えてもらえなかった。タクシーを拾うほうが、簡単です、などと言われ、表に出る。広い通りに出て、さて、どちらに行くかもわからない。二人のひとたちがとても親切におしえてくれて、蒲田はJRのほうですね?と訊き返されて、なんともややこしい、とわかった。ともかくバス停で待っているのが肝心、二人目のひとにお礼をいい、その通りにする。そうこうしていたら、タクシーが来たので、乗り込んだ。わずか五百円、遠く思われたが、実は近くの場所なのであった。

これでようやく終ったという喜びはあったが、今日、わたしはもうひとつ、やらなければならないことをかかえていた。疲れてはいたが、十一時まえのこの時間、今日の分の睡眠薬がない、どうしても、もらっておかなければ、頭のなかにどのようにクリニックにたどりつくか、絵を描いていた。すでにビショヌレ状態であったが、足だけは動く。緊張しつつ、それでも大役を果たした気持ちよさをかかえつつ、足を確実に動かしながら、なんとかクリニックに到着できた。

 

2024年6月 5日 (水)

いっしょに出かける

大森の年金相談の場所に息子についていってもらって午後から出かけた。書類四枚分に書き入れて、ととのえる。

時間は一時間、その間、簡単なことなのだが、いろいろ判断をしながら、間違いないように書き入れるのが不安だった。

このごろのわたしは、書き間違いを必ずするからである。

息子に頼りっきりで一番大事なことはすべてやってもらっている、という現状で、我ながらあきれる。

大森の駅から一分、のところ、呼ばれたのは閑散としたところで、一組だけ。思ったより、楽で、係のひとがパソコンを叩きながら、ときどき質問をし、最後に書き入れるところは息子が読みあげてくれて、困って返事ができないことはまるでなかった。確認のために、もう一度一人で蒲田まで出かけなければならなくなったのが、お一人で大丈夫ですよ、しっかりしていらっしゃるから、とおだてられ、もううれしくなって、一時間と言われてたのに、四十分ぐらいですんで、息子は別方向に出かけ、わたしは帰るということになって、そうだ、サントリーホールに出かけてチケットを買おうと思いついた。

務川さんのピアノリサイタルのチケット、ネットから買おうとしているのに、サントリーのメンバーの記録が、再入力しなければならなくなって、それがどうしても、できない。パソコン入力がどうしてもうまくできない。パスワードのところでおかしくなってしまう。

そうだ、ひまならいくらでもあるのだから、こういうときにこそ一人で買いに行けばいいのだ。それにもっと気になっていることがこんなにすんなりできたのだから。

昼間のサントリーはガラガラで、しかもプレイガイドは幸運なことに開いていて、一枚二階席が楽に買えた。

もうれつ、お腹がすいていることに気がついて、ポールでコーヒーとパンを買ってゆっくり味わって食べた。

忙しい日だったのに、なにかとても落ち着いて物事ができた日でもあった。

 

2024年5月30日 (木)

かみ隠し

お墓にお骨を収めてやれやれと、思っていたのに、今度は大きな荷物が配達されて、それがなんとお花なのである。いろいろアレンジされたものであったり、ランが一種類だったり、下さる方は心をこめてとお気持ちはわかるのだが、いただくほうは荷物をほどくのが大ごとである。そのたびに息子に頼むのだが、一人住まいだったら、さぞ、と思ってしまう。いま、夫は三種の花に囲まれている。胡蝶ラン、洋花のアレンジ、今日、もう一種大きなランが届いた。これは植木鉢で、白いランであった。お花騒ぎはまだ続いている。

それに引き続いて起きたのが,大事なはずの、物のあり場所。いろいろものがなくなって出てこない。小さながま口状の入れ物に入っている,私の印鑑。何十年まえにわたしの名前だけを印鑑登録をしたのだが、それをとりあえず、必要なところに押してしまったので、そのあと、どこにしまったのか記憶は消え失せ、必死に探そうにも思いだせない。いまは、腕時計が消えている。最後に外したのはどこだったのか、その日はいつだったのか、そういう普通の記憶があまりにもいろいろなことを記憶しなければならないので、どこかに消えてしまった。その記憶を整理しようにも、次から次へと覚えておかねばならないのが、ふえていて、どれがどれやら、わからない。いまは香典やお花のもらったところを覚えていて書いたものから礼状を整理するところまではできているのだが、まだ、どんどん後に続くのでそちらに集中すると、以前のがどこかに行ってしまう。

パパが寂しがって、邪魔してるんだよ、と子供たちは言うが、そういえばだれも留守で私一人夜寝ようとすると、どことなく音が聞こえたり、なんとなく薄気味悪い感じがする、と思うときはもう眠くなっていて、また翌日がくる。

私の状況がどんななのか、電話をくれる友人がいる。同じような体験をした、決して異常ではない、そういうものなのだ、ましてや八十六になる歳、当たり前よ、と慰めてくれる。

新しい印鑑を息子がつくってくれた。自分のものも一緒に頼んだのだそうだ。無くなったものを考えるのはよそう、と言う。

有難いことである。

 

 

 

 

2024年5月18日 (土)

四十九日の日

前の晩から、支度をととのえて、翌日に備えていた。車を運転するのは、行きも帰りも娘、かなりのスピードを出していたが、安心して乗っていられる。でも鎌倉は遠い。

片道およそ一時間、わたしには三年ぶりの、遠乗りであった。

四十九日の日。鎌倉では一、二を争う名寺であるが、十年ぶりぐらいに再訪する身としては、入ったとたん、お寺が荒れている、という感じがした。本堂の近くの日本間に通されたのだが、迎えてくれた奥さまが、かなりお年をとられたという感じだったし、水やりが足らずしおれた花が飾ってあり、なんとなく、手が足りていないという感じなのである。

和尚さまは、義母がなくなって以来の対面だから、あれから二十年ぐらいたっている。なんでも鎌倉円覚寺の優等生だった人だという、ちょっときつい感じのひとだったが、今日のそのひとは全体に丸みが出てコワい感じではなかった。お経はさすがにご住職らしい格があって声がよくひびき、しかも聴かせるものがある。つかっている木魚や、太鼓が古さとその長い年月を感じさせる、重みのようなものが私たちを圧していた。

それから墓地に移動して、納骨。夫の歳と、院のついた名前が記されている札を息子が見て、五月が、三月になっていると丁寧に訂正した。和尚様はありゃ、と叫んだが、ちょっと緊張感が取れた瞬間であった。

みんな年取っている、と思った。お墓の奥はかなり深く、まだまだ、何名でも、入りそうてある。こんなときだから、お墓の底まで見ることができた。

もどってきたとき、出されたお薄とお菓子はさすがのお味、食べ方だけは、茶の湯を習っていたわたしだけが知っていた。

 

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