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2017年11月20日 (月)

おすすめレシピ

夫の世代は戦前がかかっているせいか、世辞など、コケンにかかわるとでも思っているかのように、妻のつくった料理を、おいしいのが当たり前としていて、めったに褒め言葉を言わない。わたしは外食したら、代金を払うけれど、家では「おいしかった」というのが代金よ、と主張しているのだけれど、黙っているときはおいしいんだ、などという言葉が返ってきて、あいかわらずの沈黙の食事風景なのである。

あまり沈黙だと、わたしは一緒に食べるのも不愉快になってきて、自分の食べかけを持って自室に引っこんでしまうこともあった。

最近はそれが少し変わってきた。もしかしたら、これが最後の食事になることも、という年齢になったせいであろうか。食べ終わったあと、「おいしかったよ」と早口で言うことが多くなっている。

先日、めずらしく、こころの底からというように、うまい、を連発したレシピ、それがこのカリカリ豚バラにゅうめん、雑誌『明日の友』で見つけたもの。
付け合せは彼の好きなカボチャの煮物。001


そうめんをかためにゆでる。
豚バラを塩コショーして弱火でカリカリに焼いて、ペーパータオルの上に。
そこにニラを2センチくらいに切っていためておく。
その鍋に、だし汁(二人分)、酒大さじ1、みりん小さじ2、薄口しょうゆ大さじ1、塩小さじ1/3を煮立て、そうめん加え、豚肉のせ、黒コショーふり、好みでナンプラー少々をふる。

そうめんは全部使いきらずに残してしまうこともあるが、こうすれば、この時期でも食べられるし、うどんやそばより、むしろ軽めで、豚バラカリカリ、ニラと一緒にしてもあっさりと食することができる、いいレシピだと思った。


2017年11月15日 (水)

『蜜蜂と遠雷』読後感 2

内なるなにかに突き動かされるように言葉がほとばしっているこの作品、著者はそれほどにクラシックのピアノに魅せられているのだろうと想像して、経歴を調べたら、クラシック音楽好きの家庭に育ち、ピアノを習っており、その教師はディヌ・リパッティのピアノを聴かせたというから、これは幼くしてよほど音楽性を養われていると推測できた。

この小説、構想12年、取材11年、執筆7年をついやしたと、著者担当歴20年の編集者が語っている。モデルと言われている、浜松のピアノコンクールに通い詰めたという逸話もあり、執筆のための、それだけの恵まれた条件と時間とを持ち得ただけの重みは、確かに読み進むにつれてしみじみと伝わってくる。

演奏者によって、よく知っている曲がまるで初めて聴くような気がしたり、テクニックはまったく同程度の演奏者でも、雑念がまったく入り込む余地のないほど集中できる場合とそうでないときとがある不思議、そのカギが、この小説の中で明かされているような気がした。
「人間は自然の音の中に音楽を聴いている…弾き手は曲を自然のほうに『還元』する…」
「ショパンのバラードには幼い時の感情、うらべうたを歌うときに感じるさみしさ…が含まれているような気がする…この一瞬一瞬、音の一粒一粒が今たまたま同じ時代、今この時に居合わせた人々に届くとしたら…」

「音楽をわかっているという自惚れだけが肥大して…おのれの聴きたいものだけを聴いて生きてきた…鏡の中に自分の都合のいいものだけを映してきた…」という言葉は私自身を言いあらわしているかのように、打ちのめした。
もっと別の自分になるのは、まだ間に合う。苦手だなどと決めてしまわずにどんな音楽にも接していきたい、という思いにもさせてくれた。

それをはからずも悟られていたかのような、作中の演奏順に聴けるナクソス・ジャパンの、CD発売宣伝のためのプレイリスト、視聴15分を活用、まずはプロコフィエフとバルトークを堪能した。

2017年11月13日 (月)

『蜜蜂と遠雷』読後感 1.

自分からは手にすることをしなかった本である。「読み始めたらやめられなくなるほどの本だから…」と貸してくれた若い友人、ジュン子さんに、感謝をささげる。彼女は類いまれな本を選ぶ目をもっていて、これまでもどれほど心の栄養をもらったかしれない。Photo


作者恩田陸という名は知っていた。ミステリーの若手女流作家程度の知識でしかない。このひとがクラシックのピアノミュージックにこれほどの造詣があるとは、まさに舌を巻くほどの、描写の連続である。

日本の地方都市で開かれたピアノコンクールが舞台。四人の主要登場人物がどのように第一次、二次、三次、本選へと挑戦していくかが、克明に描かれる。生まれながらの天才としかいいようのない少年、ジュリアードの優等生で、優勝候補と期待されている、日系の容姿も端麗な青年、小さいときから才能を発揮し、将来を嘱望されながら、挫折し、復帰を志す女性、そして表現力と感性には恵まれながら、音楽の道を断念し、就職したが、このコンクールにもう一度挑戦しようとしている成人男性、この四人、それぞれの視点でそれぞれの選曲がどのように演奏されたが、まるでこの目で見、聴いているかのように描写される。
音楽を言葉にすることがどれほどむずかしいかは想像に絶するのに、著者はいとも軽やかに、豊かに、しかも短く、即興的に感性あふれる表現でやってのけている。

わたしには少々苦手だった、プロコフィエフとかバルトークとかの音楽を、ぜひ聴いてみたいと思わせるほどの、表現力なのである。
いや、まったくスゴイと思いながら、この本、507ページを、上毛高原の宿で、一日で読んでしまった。(続く)

2017年11月10日 (金)

上毛高原で静養

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これで三度目、定宿化してきた世田谷区民健康村、今回は温泉つきのフジヤマビレジに二泊。紅葉まっさかり、というのを当てにして予約を入れておいたのだが、寒波の訪れが早かったせいで、盛りは過ぎて、紅葉の紅は赤茶けていた。花見のピークどきをとらえるのがむずかしいのと同様、紅葉の見ごろを当てるの容易くはないことがわかった。017_4

それでも絶景の名残りは明らかである。024_3


英国の旅行家、イザベラ・バードはかつて明治初年に日本の奥地を歩き、日本は山と森と水の国であり、それらが複雑でおそろしいほど変化に富んだ表情を見せる、と言ったそうであるが、その日本の原風景のような上毛高原にも、まさしく山と森と水があることを実感した。023_3


筋肉痛、関節痛、神経痛にとりわけ効果あり、という温泉に七回ぐらい入浴した効果は明らかで、膝の裏側に痛みは出なくなり、和室に敷いた布団での寝起きだったが、夜中にトイレに起きる時も、何にもつかまらずに、立ち上がれるようになっていたのがうれしかった。

2017年11月 6日 (月)

まだ咲いてる

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不運な天候にたたられ続けるユウガオだが、この日は開花したのが日暮れてからだったせいか、翌朝までしぼまずに、高貴な姿を見せてくれていた。
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つるはどんどん伸びて、とうとうシュートを越えてぶらぶらしているので、考えた末、夫の二階の部屋のバルコニーの手すりに麻ひもを結びつけて下にたらし、それをシュートにからめてつなげたら、ま、いいか、というようにまたからんで伸び続けている。

2017年11月 3日 (金)

『ばぁばの出番』

孫たちが独立を果たしたこの機会に、二人が幼かったころのことを思い出しておきたいと思いました。
十年まえ、まだわたくしが『婦人文芸』という同人誌に所属していたときに書いたもの、少し長いのですが、ここに載せることにいたします。

            
                            ばぁばの出番   
 
  命の教え  
       
 初孫は八月十五日の終戦記念日に誕生した。両親が音楽関係の仕事をしていたので、〈平和を奏でる〉ことを願い、奏平と名付けられた。
 暑い日の出産だった。微弱陣痛が一昼夜も続き、ついには陣痛促進剤が使われたので、娘の苦痛の叫びは尋常ではなく、産声を聞いたときの安堵はこの上ないものであった。
 ところが、生後三日目異変が知らされた。新生児黄疸の熱が下がらないのだという。大学病院に運ばなくてはならなくなり、産婦は安静にしていなければならないので、救急車には私が付き添うことになった。 
 看護婦に抱かれた奏平は泣き声もたてず、こけし人形のように穏やかな顔をしていた。助かるのだろうか? 新生児を外に連れ出して大丈夫なのだろうか? 私は神に祈った。「私の命を縮めてでも、どうかこの子を生きながらえさせてください」
 産婦はほどなく退院はしたが、産後の疲れをやすめるひまもなく、あふれでてくる母乳を搾って、病院に届ける配達人にさせられた。三時間おきに、三十分かけて搾り、冷凍し、一日分をアイスボックスに入れ、毎日車で十五分ほどの病院へ運ぶ。それが、一週間続いた。
 夜中に目をさまして、娘の部屋をのぞくと、肩を丸めた彼女が懸命に搾乳器で母乳を搾っている。代わろうにも代わってやれないもどかしさと憐憫のため息をおしころし、ベッドに戻るのだった。
 長い七日間が過ぎ、待ちに待った退院のとき、と喜んだのも束の間、奏平は再び発熱し、一週間の入院延長を言いわたされてしまった。落胆に疲労が加わり、吸う主のない乳房はかたく腫れあがって化膿し、乳腺炎を起こしていた。医者は化膿止めと抗生物質のクスリをくれただけで、大切な母乳の保存には無力であった。これではいけない、このままにしておくわけにはいかない、ふいに脳裏に記憶の断片がよみがえった。痛くない乳房マッサージを発案した助産婦さんがいるというニュース、それを図書館で目にしたことを思い出したのだ。
 住所をつきとめ、御茶ノ水駅の近くのオッパイ・ルームと称するその場所に、高熱で真っ赤な顔をした娘を連れていった。きびきびした助産婦さんが、娘をやさしくベッドにみちびき、乳房に蒸しタオルをそっとかぶせる。やがて指がなだめるように何度か円をえがいてから、まるで生き物のように踊り始めた。
 一時間ほどで戻ってきた娘の顔はやすらかで、赤みもとれており、三十九度あった熱は三十七度に下がっていた。マッサージは痛みがまったくなく、きわめて心地よかったのだという。
 近頃の若い女性の身体はすでに栄養たっぷりなので、その上カロリーをとりすぎると、乳質はにごり、赤ん坊はアトピーに、母親は乳腺炎の再発をまねくことになりかねないと知らされた。
 以後定期的なマッサージを受けながら、カロリーをコントロールした菜食中心の食生活を実行し、奏平の退院の日には最上質の母乳を準備することができた。
 新しい命はファーストフードや外食の多かった母親の食生活を変え、母子ともどもこの上なく健康な体をつくることを教えた、そう思われてならない。

その日

日めくりカレンダーの日付がその日のままになっている。
その夜九時ごろ、電話が鳴ったのだ。「隆志さんが倒れたの。いま救急車を呼んだんだけど…」娘の切迫した声だった。
コートの袖に手を通すのももどかしく、夫と車に乗った。
「脳出血かしら? それとも心臓…?」
「若いんだから手術すれば助かるさ」
それ以上の会話は交わさなかった。
人気(ひとけ)のない住宅地の闇に点滅する救急車の赤いライトが不安を一層かきたてる。倒れた原因は心臓だと知らされた。夫は娘につきそって車に乗っていき、私と孫二人が取り残された。
「パパね、キイキ悪いんだって。かわいそうにねぇ」三歳の孫息子は心配顔でそう言うが、一歳の孫娘はふいにあらわれたばぁばを見て満面の笑顔なのがつらい。ともかくパジャマ姿のふたりを一刻も早く寝かしつけねば。孫娘のほうはお気に入りのタオルを顔に当てるとすぐ寝てくれた。
声が上ずりそうになるのをおさえ、孫息子のために『グリとグラ』を読む。
「奏くん、パパがよくなるように神さまにお祈りしようね」小さな手を組ませながら言った。
「うん、ボクお祈りする」
 子供たちの寝息をたしかめてから、居間のソファーに横になった。疲れているはずなのに、目が冴えきっている。娘の結婚生活四年間はまことにめまぐるしかった。式をあげたその年に長男が生まれ、一年半ほどしてまた身ごもり、その間に二度も引越しをして、この年、家まで建ててしまった。十五歳年上で音響の仕事をしている婿は旅が多く、ゆったりと休んでいる姿を見たことがない。私は内心不安だったのだ。
午前一時にようやく電話が鳴った。
「心筋梗塞だ。ダメだったよ」夫の沈んだ声だった。
 〈運命が牙をむいておそいかかってくる〉自分が以前翻訳した小説の一文が不意によみがえった。

 通夜と告別式には幼い子供たちを出席させるにしのびないということで、私が自宅で世話をすることになった。丸一日、家にいては時間をもてあましてしまうので、近くの児童館に連れ出した。
 若いママたちが子供をベビーカーや自転車にのせて、次次にやってくる。オルガンが鳴り体操が始まっても孫たちは仲間に入ろうとしない。子供につきそって歌い、身体を動かしているママたちがみんな、元気で頼もしい夫を持った幸せな人たちに見える。私はそっと輪から抜けだし、孫たちを図書室に連れていった。
 しばらくしてまた体操の部屋に戻ろうとしたのだが、奏平が、イヤだ、と言う。
 「ボクきらいなの」ここニ、三日この言葉の連発なのだ。〈きらい〉は拒否、不愉快、哀しみの全てをあらわしているのだろうか。
 告別式から戻った娘は、大勢の友人が焼香にきてくれて、涙を流してくれたと報告した。中学から大学を通しての友人、サークルの仲間、仕事の同僚、全ての友人、知人に躊躇することなく訃報を知らせている。
 私はむこう一週間にしていた約束の相手だけに断るわけを話した。しかも他の人にはしゃべらないで、と頼んでしまった。突然襲った悲劇を、これからの人生のハンディのように感じてしまっている。
 そんな本音の裏側で別の声がささやく。〈これは神が与えた試練なのだ。どう乗りこえるか人生の正念場だぞ〉と。娘親子のために自分の生活を犠牲にして尽くすべきなのか? それほどには強くなれない自分を知っている。
 これまでの私の人生は、子供たちの入試の失敗や、親の病気といった程度の困難にはぶつかってきたが、おしなべて平穏だったのだ。婿の夭折という爆弾のような悲劇に遭遇し、哀しみより先に不安におびえ、そのくせ妙に冷静になって、行く末を考えている自分をもてあましていた。
 いまの状況の捉え方を知りたい。不幸の乗り越え方のよりどころがほしい。そういうことが書かれている本はないのか。図書館中を探しまわったが、そのような書物は見つからなかった。
 そうだ、アメリカには〈セルフ・ヘルプ〉という実用書の分野がある。アメリカの友人に頼んでみよう。ヘレンがいい。彼女なら今の状況を理解してくれるだろう。二十数年前夫のアメリカ駐在に伴い、四年間イリノイ州のエヴァンストンで暮したとき、娘が幼稚園で仲良しになったエリーサのママ、ヘレン。知り合ってまもなく、私宛の封筒に戦時中の大統領トルーマンの切手を貼ってしまったと詫びたヘレン。アメリカ人にはめずらしく、しゃべるよりも、書くことに自分の気持ちを語るひとで、お互いの息子と娘が同年齢だったこともあり、帰国後も文通しあって、親しさを保ってきた。娘は成人してから、夏の一ヶ月を単身、彼女の家で過ごしたこともある。
今の私のふがいなさ、娘を慰める言葉に窮しているこの状況を書き表すには、あいまいな言い回しの少ない英語という言語がまさにふさわしかった。依頼の手紙を出すと、ほどなく「あなたの慰め方を教えてくれて、ありがとう」という書き出しの返事と共に、一冊の本が送られてきた。
 『愛するひとを失った哀しみをどう乗り越えるか』と題するその本は、〈失ったことを理解する〉〈生き抜く〉、〈癒されていく〉、〈成長していく〉の四つの段階に組まれ、わかりやすい言葉で一ページずつ、九十四章にまで順を追って、悲しみをのりこえていくプロセスを記している。
 驚いたことに、心理学者と精神分析医と詩人との共著なのだった。心の動きを正確にとらえながら、大丈夫だ、と励まし、納得させつつ、右ページに美しい愛の詩を掲げる。その構成は心にくいまでに読む者の心をとらえる。
 「一大変化が起こったのだから、それに付随する変化を起こさないように/忙しくしていられるならば、癒されているのである/成長していくものをそばにおくこと。新しい観葉植物、ペットなど/電話を利用して、できるだけ人と話すこと/イライラしたら楽器にぶつけるのもよい…」などなど。日々、日常をこなしていく中で哀しみや苦しみを消化させていくやり方を教えている。
 娘にこの本を渡したのだが、音楽を教える仕事と、幼稚園の入園準備で目が回るように忙しく、読みとおせなかったらしい。つまり忙しくしていられたのだから、癒されていたのである。海を隔てた友人が私たち母娘のことをおもい、これほどの良書を贈ってくれたという事実も励みになって、起きたことを受け止め、明日に向かっていく勇気が出せるようになっていた。


孫たちとの日々

 一歳の孫娘は父親の顔さえ覚えておらず、さしあたって成長に影響はみられなかったが、三歳の孫息子のほうにはいろいろトラブルが起きていた。まず排便の失敗。幼稚園に入るまえなのに自分からなかなか教えようとしない。ママは気が気ではなく、しょっちゅうパンツの中をのぞいている。
 「奏クン、ウンチおしえてね、おねがいだから」
 「ウン、おしえる」返事はいいのだが、当てにはならない。
 当時八十七歳の実母は兄のところで自宅介護されていた。歩行が困難なので、トイレにも付き添いが必要だった。
 「おばあちゃまったら、ちっとも教えてくれないのよ。もう三日も便秘してるのに」
久しぶりに訪ねた私に、義姉がしきりにうったえる。
 「お母さま、したくなったら教えなくちゃダメよ」
 「うん、そうだねえ」返事はまともだが当てにはならない。
 実母と孫息子とはちょうど上りと下りの電車がすれちがう接点のような状況らしかった。ひとが生まれてからどのように老いていくかを両面からつぶさに見せられているという実感があった。

 幼稚園が始まってからは、自分の気に入らないことが起きたり、思うように作業ができなかったりすると、感情をたかぶらせたり、部屋を出ていったりすることが多くなった。トランプ遊びをしていても自分が負けるとカードを叩きつけたりする。忘れ物も多いと聞く。娘があまり困っているようなので、区の子育て相談に電話をかけた。事情を話すと、穏やかな声の女性が言った。
 「そういうことがあとになって起こるより、今起きてよかったんですよ。夜寝るとき、なるべくお母さんが一緒に寝て、本を読んだり、お話をしたりしてください。お母さんが疲れているなら、お子さんに読ませてみるのもいいでしょう」
私はひととき心がやすまった。

 娘は小学生や音楽学校を受験する学生たちにソルフェージュや楽典を教える仕事をしており、それが毎週土曜日だったので、孫たちは土曜の朝から我が家にきて泊まり、ママが日曜の夕方迎えにきて夕食を共にして帰るというのが決まりになった。孫たちが五歳、三歳になるころまで、どのように長時間を楽しくすごさせるかが、私たち祖父母の課題であった。歩行がむずかしくなった義母の自宅介護もあって、祖父母二人で出かけるのがむずかしいときもあった。
プールに泳ぎにいくのはもっぱら私の仕事だった。けれども子供プールに入れておけば楽というわけにはいかなかった。大きいプールで泳ぎたいといって騒ぐ奏平をなだめながら、孫娘には浮き輪につかまらせ、すぐ戻ってくるからね、と言いきかせて、奏平の泳ぐのを助けるのだが、ばぁばーっ! と叫んで出てきてしまう孫娘のところに駆け寄らなければならず、二つ身体があればと切実に思ったこともしばしばだった。

 渋谷にある東京都児童館や、青山の子供の城にも何度足を運んだことか。ある日義母の排便の始末が長引き、出発が後れ、浮かない気分のまま、二人を子供の城に連れていくことにした。急行は土曜とあって混んでいて、二人の子供は押しつぶされそうになり、笑顔が消えていた。渋谷駅で、奏平が児童館の方がいいと言い出す。妹はイヤッ、と言ってきかない。二人の言い争いが終わらないので、ジャンケンで決めることにした。運悪く彼が負けて、地べたに寝転んで大声をあげる。しまいにはボクひとりで行くといってさっさと階段のほうに消えてしまった。戻ってくるだろうとしばらく待っていたのだが、姿を見せないので、孫娘の手を引きながら、児童館に向かった。門衛のおじいさんに訊いたのだが、そういう子は見かけなかったと言われ、呼び出しのアナウンスを頼み、おじいさんに孫娘をみていてもらって、五階までくまなく探したのだが、見つからない。「ぼくなんか死ねばいいんでしょう」などと言うこともあったので、不安は増すばかりだった。ついに自宅に電話し、夫にきてもらうことにして待っていたとき、私を呼び出すアナウンスが聞こえた。東急の渋谷駅からで、奏平を保護しているという。もう少し駅で待っていればよかったのか。
 まったく何という一日だろう。ともかく無事でよかった! 叱りたくなるのをおさえ、駅の事務所の椅子に神妙な顔で坐っている奏平に、歩みよった。
「奏クン、あなたも一生懸命探したかも知れないけど、ばぁばも児童館まで行って、一生懸命探したんだよ。でも困って駅員さんのところに行って話したのはえらかった。ほめてあげる。これからはこんなことがないようにしようね」

 駒沢公園には数えきれないぐらい通った。石造の動物がおいてある、ブタ公園、ウマ公園、リス公園、どこも孫たちは大好きで、いつまでいても飽きるということがないくらいだった。
孫たちが十歳、八歳になった二月のある日、久しぶりに、夫も一緒にブタ公園に出かけた。大小四体の目を閉じた石のブタがうずくまっていて、その後ろにトンネルをくりぬいた小山がある。その山がきょうはなんだか低く見えた。二人が成長したせいなのだろうか。二人は早速その山によじ登り、真ん中の穴から、トンネルに降りたち、おっかけっこをしたり、滑り台を競争でかけおりたり、すごいスピードなのに危なげなく遊びはじめた。
「手がかからなくなったよ」ため息と共に夫が言った。ひとりで幼い二人を連れて、片時も目をはなすことなく、世話をしたこともあったのだ。
二人乗りの自転車に私と奏平が乗って公園を半周したのだが、彼の方が勢いよくこぐので、バランスをくずし、道路わきに座礁してしまった。
「ばぁばったら、まったく…」と笑いながら言ってうしろを向き「すみません。お先に行ってください」と後車のひとに挨拶したのには驚いた。
夜は鍋料理。奏平は食べたあと、自分の皿にコップをのせて台所に運ぶ途中でコップを落とし割ってしまった。「ごめんなさい!」と間髪入れずに言う。
「すぐあやまってえらかったね」と私が言うと、孫娘が言った。
「ばぁばがせっかく買ってくれたコップなのに」
妹に言い返そうとしない奏平に、また驚いていた。

中学二年になった奏平は私の背をようやく越した。最近はおだやかになってあまりキレることがない。先日娘の家に留守番に行ったとき、小学校の卒業記念文集を見つけた。六年間で一番印象に残ったのは…という書き出しが圧倒的に多い中で、奏平の文は違っていた。
「石が深沢に転がっていた…」で始まるその内容は、自分たちが一年のとき、石ころのようにちっぽけな存在だったが、「力を合わせる」ことを重ねて、岩石のような塊となって何かを動かすことができるようになった、というものだった。それを学年ごとの運動会を例に出して、チームワークがどのようにしてできたかを具体的に述べている。
運動会は父親が華やかに登場する場である。応援する父親、ボランティアで働く父親、父兄参加の競技で張り切る父親。どんな思いで見ているかということばかりを想像していたのに、こんなことを考えるようになっていたとは。
クラスのランキング五項目に彼の名があった。〈キャラがこい人〉四位,〈早く結婚しそうな人〉四位、〈将来有名になりそうな人〉二位、〈ありえないことをし出す人〉二位、〈長生きしそうな人〉四位。
ばぁばの出番は確実に減りつつある。救急車の中で神に祈ったことがほんとになるなら、私の寿命は長くはないかもしれないが、奏平がほんとに早く結婚して長生きするのなら、それを見届けたいという欲が出ている。


2017年10月31日 (火)

続、孫娘の音楽会

孫娘はいつもと変わらず、むしろすがすがしい表情であらわれた。自分の一番好きなカラーを選んだというレンタルのブルーのドレスも、シンプルなデザインだったが、金色に輝くトロンボーンを引き立てるのにふさわしく、彼女に良く似合っていた。
平常心でね、と前の日、メールをしたのだけれど、その通りの第一音が出た。

トロンボーンは管楽器の中でも、もっとも人間の声に近いとされている。人類最初の楽器は笛だったと言われているが、そのルーツが、「天然」というニックネームをもらっている孫娘の素朴な性格に合ったのだろう。食べ物をとてもおいしそうに食べる子で、小さいときから好き嫌いはほとんどなく、ワカメが大好きだった。男性に負けないような肺活量も養われてきたのかもしれない。

一歳のときに死に別れた彼女の父親は音響の仕事をしていた。わたしが不安な時の神頼みなどしなくても、きょうのあの音は、天上から父親が守っていてくれるからこその響きなのかも知れないと思った。

終って娘たちと合流した。「音がずっとよくなっています、もう立派なプロですね」という孫娘の担任の講師の声が聞こえた。

楽屋口で孫娘は大勢のひとに囲まれて写真を撮られていた。009
今夜は疲れをやすめるひまもなく、新幹線で仕事場のある地に戻るのだという。

感想とねぎらいのメールを送ったら、「緊張したけど、やりたいこと全部出し切れてよかった! ばぁばも身体に気をつけてね!  またご飯食べにいくね」という返事があった。

2017年10月30日 (月)

孫娘の音楽会

台風も接近しているというきのうは、孫娘の音楽会の日であった。
オーディションで選ばれたほかの三人のソリストと、それぞれオケつきで演奏するという、音楽大学のイヴェントで、トリを務めるのだという。

彼女はすでに東北地方唯一のプロ交響楽団に就職しているが、卒業前のこの音楽会は最後の晴れの舞台になるのではないかと、我が家から電車で二度乗り換えのちょっと遠いその場所に出かけた。

ケース付きのトロンボーンという楽器は結構重いので、それを背負い、しかも必要なもの全部が詰まったカサのあるバッグを肩に、朝のラッシュ時に通うのは大変だっただろうな、と察することができた。

孫娘が取っておいてくれた席は中央からちょっと右の一階席だったが、すぐそばの中央に、とても目立つ高級なおしゃれをした美しい女性がかなりの席をおさえていて、皆におめでとうございます、と挨拶されていたので、出演者の母親なのだと察しがついた。

孫娘の直前のソリストはその女性に良く似た、細身の美女で、真っ赤なドレスに、光る石をちりばめた白いベルトをして、楽団員に挨拶するときに後ろ向きになった姿は前側のデザインよりもっと目立つ、大きなフリルの流れた、ドキッとするぐらいの立派な立ち姿だった。しかも演奏も緊張がまったくみられない、たおやかで流れるように美しい、テクニックもすぐれた、サン=サーンスのピアノコンチェルト。
終わるとソリストにそっくりの母親に、招待されたひとたちは、その曲だけ聴きにきたらしく、150点でしたよ、という褒め言葉を述べて去っていった。

このあとはプレッシャーだろうな、とわたしは孫娘を思いやって、神に祈った。どうか無事に務められますように…。(続く)


2017年10月25日 (水)

よく戦った、DeNAベイスターズ、そしてありがとう!

まさか、これほどの躍進を果たすとは、ファンでさえも、想像外だったのではないだろうか。

夫は大洋ホエールズ時代からのファンなのだが、1998年に優勝してからは、名前が変わり、監督が代わっても、成績はさっぱりよくならず、内川、谷繁、村田など、これという名選手はほとんど引き抜かれて、この先望みはなさそうだから、もう応援するのやめなさいよ、と何度も言うぐらい、鳴かず飛ばずの試合ぶりにしょげかえることが多かった。

それでも、ひいきの熱情が娘一家にのりうつり、彼女たちが我が家を訪れると、わたしは置いてきぼりで、野球の話に熱中する。それがせめてもの幸いか、と思っていた。

今回もリーグ戦の始まりは相変わらずの勢いのなさで、わたしは元々野球が特に好きというわけではないから、ともかく、夫が鬱にでもならないように、時折励ますことはしていたけれども、期待は全くしていなかった。

ところがどうだろう、三位からまさかのCS出場、キャプテン筒香はタイガースとカープを破ってかならずここに戻ります、などと無茶な宣言をして、と思ったのに、それが本当になってしまったなんて。

敵の本拠地で闘う四戦、三勝目のわずか一点の差、わたしも祈る思いで見届け、守り切ったときには夫と抱き合ってしまった。そして一昨日、マシンガン打線が復活したような勢い、ラミレス監督のお立ち台の最初の一声、神に感謝するという言葉に、まず感動。これぞ、野球の面白さ、を見せてくれながら、夫を元気にさせてくれて、ありがとう!!ベイスターズ!

夫はきょう理髪店に行って、生気が戻り、若返ったようだ。
まだ、もしかしたら一週間も野球が楽しめるかも…と言いながら、笑顔になっている。

2017年10月23日 (月)

ようやく、枝野さん…

きのうの投票日は迷っていた。
天候も、だが、教会にも行かなければならないし、午後にもその足で出掛ける予定がある。
どうしよう・・・
東京第三区、入れたい候補者なし、でも支持政党は、迷いなく立憲民主党なのだが…。
枝野さんびいきなのである。十年ぐらい前、国会中継を見ていた時、耳を疑うほど、見事な質問をするひとがいた。論旨が明快、声よし、迫力あり、場内はめずらしくシーンとして、ヤジもなく、皆が聴き入っていた。だれだ、こにひと? さっそくネットで調べ、注目し続け、もっと、もっと活躍してほしいと思って応援していた。

そしてきのう早朝、朝日新聞を開いて、社説のところで目が釘付けになった。
「棄権なんてしていられない」のタイトル、…思案の雨の朝である、で始まるその文章、
政治の、「打算と駆け引きの果て、置き去りにされたのは、理念と丁寧な説明、そして国民である」その通り、叫びたくなった。
「…だが今回の一票は、時代を画する重みを持つ」そうなのだろうか?  次に「ヒラリー氏の嘆き」…あの選挙の時、投票率は50%、多くの市民から、実は投票に行かなかったのだと、謝られたそうなのだ「市民としての責任を最悪の時に放棄したのね」と言う言葉をのみこんだのだとのちに語った。「…棄権という選択は、将来を白紙委任することに他ならない」そして「…選ぶことをしなければ、民主主義は始まらない」「…関心が高いから投票に行く、投票へ行くから関心が高まる、どちらも真理だ。さあ一歩を。」なんという説得力ある言葉の数々…朝日新聞にはこういう文章を書けるひとがまだいる…よみがえったな、と思った。

そして投票へ。
結果、立憲民主党の素晴らしい躍進。枝野コールが沸き起こるあのすさまじい人だかりの街頭。

これまで彼は、持てる力を出し切れずにいた。3・11がなかったら、民主党政権は続いていたかも知れない。でも彼が陣頭に立つには時間がかかっただろう。

そして今、チャンスが訪れた。枝野さんのときが・・・応援してます、枝野さん。

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