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2018年5月21日 (月)

三度目の『眺めのいい部屋』

NHKBSのプレミアムシネマで『眺めのいい部屋』を観た。これが三度目である。Photo


一度目は三十年ほどまえ、封切からすぐ、映画館で。
ただただ感動していた。E.M.フォースターは英文科の学生時代に読んでいたので、小説の持つ格調たかい雰囲気を見事にかもしだした、ジェイムズ・アイヴォリーの映像技術に見入った。そして緑美しい英国の風景に魅せられ、英国人たちが魅せられているイタリアのほうにはあまり関心がなかった。
主役の二人の若手俳優が自分好みの美男美女でないのがちょっと不満だった。

二度目はそれから十数年たって、自宅のテレビで。
すでにフィレンツェを知っていたので、その映像のほうが、強烈に印象に残った。彫刻広場のようなシニョーリア広場、レプリカのダビデ像の本物もアカデミア美術館で見ていたし、ド迫力のメドゥーサの首を掲げたペルセウス像に、圧倒され、フィレンツエの旧市街で道に迷う、イギリス人たちに、やっぱりね、と感情移入していた。
そしてトスカーナの自然の中で踊りだす若者の気持ちが痛いほどわかった。
イタリアで人間は本来の自分を取り戻すということが理解できていた。

そして今回の三度目。小説の雰囲気をそのまま取り入れた、場面別のタイトル表示が美しい。アイヴォリー監督さすがである。
マギー・スミスの美しさに目を奪われた。このひと若い時こんなにきれいだったのだ。”Poor Charlotte!”と何度も言われる彼女「可哀そうな」というよりは「どうしようもない」という意味をこめた、生真面目さの故に上手にたちまわれずに、皆に苦笑されている場面がおかしい。このころから演技派だったのだな、と思った。
ダニエル・デイ=ルイスの高等遊民みたいな紳士ぶりの演技が素晴らしい。キスの場面の不器用さ、情熱をほとばしらせるあの若者のキスと何たる対照だろう。
あの主役の若い二人が美しく見えた。適役だとも思った。ヘレナ・ボナム=カーターの英語が美しい、ちょっとした表情が魅力的だ。
英国の池に素っ裸でとびこんではしゃいでしまう、あの牧師がいい。
そしてフィレンツェ、シニョーリア広場も、アルノ川にかかるポンテヴェッキオの眺めも三十年前と今もほとんど変わっていない。それを保たせているイタリアという国の努力を想った。

八十歳の見方はこうも変わるのだということを実感した時間だった。

2018年5月17日 (木)

不安がよぎる…

夫のつくったドライカレーに変調を見出して、わたしはショックを受けた。
我が家のドライカレー、それは、ジャガイモを針のようにほそく切ったものをカリカリに揚げ、牛ひき肉をガーリックの香りのついた油でいため、塩味に仕上げたものと共にごはんに混ぜて食べるフランスの家庭料理のレシピ、これを彼はマスターしていつのまにか私より巧みに料理するようになっていたのだけれど…。
それが、先日、揚げポテトはベトベト、ひき肉は味がなく、白御飯の水加減が間違ったのか、やわらかすぎて、ともかく、全部食べ終えられないほど、ひどい仕上がりだった。

そのあと、もう一つの彼の得意レシピ、スパニッシュオムレツも、ピーマンとトマトに塩味とタバスコを効かせて味付けしたものを中身にしてオムレツでくるむのだが、その味つけがまったくできておらず、オムレツも玉子がグジャグジャしていて、これまたショックだった。

ひいきのDeNAが連敗を続けていたせい、だけとは言えないほど、もうディナーのメニューを全面的に任せるのは無理ではないかという不安がつきまとっている。

しかもきのう、元の勤務先のOB同士でもう二十数年続いている昼の集まりに、その朝になって、どうにもしんどくて行けないからキャンセルすると言い、自分の携帯の具合がおかしいので、わたしにその手筈を頼んできた。今月のそのほかの集まりもついでにキャンセルしたいと言う。気の張る集まりにはもう行く気が失せたというのである。
そのくせ、マージャンの集まり二つは出るというので、少し安堵したが、お医者さんに行ったら?と盛んにすすめるわたしの忠告はふりきり、老衰だよ、老衰…とそればかりつぶやく。

そういうわたしもこれを書いていて、タバスコという名がどうしても思い出せず、今さっきキッチンの調味料入れのビンを探してようやく、思い出した始末…。
ああ…

2018年5月13日 (日)

My "Mother's Day"

娘が「何かほしいものない?」と尋ねてくれたとき、わたしは少々後ろめたい気持ちで、
ハンカチ、と答えた。

これまで何度も同じ答えをしては、母の日のプレゼントのハンカチを何度も失くしているからだ。

心をこめて選んだであろう、その好ましい柄を一枚一枚まだはっきり覚えているくらいなのに、どういうわけか、家の中にハンカチピットとかいう穴でもあって、落ち込んでしまっているか、と思うぐらい、消え失せてしまっている。

今年も彼女は、好ましくも美しいハンカチをくれた。一輪のカーネーションが添えられていたが、たった、一本で600円以上もしたと腹立たしそうに言いながら、でもこの日が花屋さんの稼ぎ時なのだろうから、仕方がないわ、ともつぶやいていた。
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愛想も素っ気もない娘だけれど、わたしの好みを知り尽くしている。わたしが生きているあいだはしんみりした会話があまりできなくても、わたしが死んだら、折にふれ、一番よく思い出して涙を浮かべるタイプだと思う。

2018年5月11日 (金)

電話連絡異聞

小学校のクラス会の幹事をしている。

先回の傘寿の祝いの会でもう終わりにしようというはずだったのだが、当日の出席者はまだ続けたいという人が多数を占めて、それでは幹事役の仕事をもっと楽にして、とりあえずは続けてみようということになった。楽に、というのは通信をハガキ印刷などにせず、出席者も今回のひとだけに限って、電話連絡にしたらどうか、という案を採用したのだ。

人数は十数名だったし、実際そのやり方を中学のクラス会で実行したひとが出席していたので、それを採用したのだが、個人情報を集めるのに、躊躇があったし、土壇場で決まったことではあったが、今にして思うと、携帯の電話番号を訊いておかなかったのは、手落ちだったという気がする。
固定電話の場合、一発で通じるということが少ない、都合のよい時間は人によって異なるので、二、三回はかけるということになってしまう。それと迷惑電話を予防するために録音しております、というメッセージを聞くことも多かった。

意外な事実がわかった。返事を保留にしていたひとがようやく連絡をしてきたのだが、わたしの電話番号が六年まえと変わったのに、彼女はその六年前の名簿の電話番号にかけてしまって、しかもそれが「現在使われておりません」というメッセージがなく、かかってしまうので、留守電に入れておいたのに返事がないのはおかしいとわかり、ようやく、現在の電話番号を探し当てて、かけてきた、というのである。
もう一人、間際になって欠席を知らせてきたひとも、古いほうにかけて、そのときは応答があって、わたしの名前をたずねて電話してくるひとがとても多いので、よろしく言ってくれ、と頼まれたということだった。

これは「ゆゆしきことだ」と、夫にてつだってもらって、なんどかけてもつながらないNTTにようやく通じて、わかったのは、以前の番号がほかのひとに使われているという事実である。個人情報になるので、そのひとの名前は教えられないが、不法な事実ではない、ということだった。
以前なら、考えられないことが起きていると思った。

そのひとに確実にかかるのはいまや携帯のほうが確かだということになるが、携帯での長話は電磁波が害になるという情報も聞いているので、できれば用件だけにしたい。

電話事情も変わってきたな、という思いである。

2018年5月 6日 (日)

続、続『ネガティブ・ケイパビリテイ…』を読む

現代の教育が目指しているものは、平たい言い方をすれば、問題解決のための教育であって、しかも電光石火の解決が推賞されている、しかし、教育とは、本来、もっと未知なものへの畏怖を伴うものであるべきではないか、と著者は問いかける。

「しかも今日の教育が画一的であり、到達目標とその達成度に重点をおいている。ところてん式の進級と進学に輪をかけているのが、試験で、試験突破こそが学習の最終目標と化してしまった…教育の現場に働いているのは教える側の思惑、端的に言えば、「欲望」である…しかし、ここには何かが決定的に抜け落ちている…世の中にはそう簡単には解決できない問題が満ち満ちているという事実が伝達されていない…」大きくうなずきたくなる指摘であった。

「学習といえば、学校の課題、塾の課題をこなすことだと、早合点され…世の中にはもっと学ぶべきこと…星の美しさ、朝日や夕日の荘厳さ、木々の芽吹きの季節のすこやかさ、花々の名前や木々を飛び交う鳥の姿と鳴き声を、大人の感受性がとらえられなくなっていれば、子供に伝えようもない…」

「研究の分野でも長い長い助走期間があるのが通常で、すぐには結果が出ない実験、出口が見えない研究をやりとげるには、ネガティブ・ケイパビリティの別な表現、運,鈍、根、今すぐには解決できなくても、何とか持ちこたえていくのがひとつの大きな能力であると、大人が教えれば、子供の心はずっと軽くなるのではないか?」

ポジティブ・ケイパビリティの頂点を究めた、役人たちが最近あらわにした国会での失態を思い、この提唱を深く、大きく受けとめたのであった。

2018年5月 4日 (金)

続『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力」を読む 

イギリスのビオンという精神科医は第二次大戦後、このネガティブ・ケイパビリティの理論を提唱して、精神分析学に多大な貢献をもたらすことになった。
著者は小説家であるかたわら、現役の精神分析医でもあるので、この理論がどれほど、精神分析の診断の現場で励みとなるかを実証していて、興味深い。
身の上相談も含まれる現場で解決法を見つけようにも見つけられない実例が山ほどあり、そこで、じっと耐え、相手の苦労をよく知っているという主治医がいるというだけで、患者にもネガティブ・ケイパビリティを持たせることをする、それには、患者の身になって共感を分かつことができる、もうひとつの能力、エンパシーが大きな力となることを詳述している。

このエンパシー(empathy)と言う語は精神医学用語であるが、わたしが四十年まえアメリカ生活を四年したときに、学んだ英語のうちで一番の収穫はこの言葉であった。アメリカでは、「わたしはエンパシーを持てるのよ」と自慢するぐらい、そのひとの身になって考えられる感情移入は、尊ばれるのである。

本書の後半、紫式部がシェークスピアに比肩できるほどのネガティブ・ケイパビリティを備えていたという、『源氏物語』の分析は日本人としても誇らしく、物語の構成、人物群の描き分け、絡み合いの分析の評価が素晴らしいのだが、それにも増して、現在の殺伐としている教育がこのネガティブ・ケイパビリティには見向きもせず、ポジティブ・ケイパビリティ一色にそまっていることへの警鐘論は、一読に値するものである。

本書の構成をより効果的にするには、むしろ、この論理を初めにかかげて、過去へ遡ってほしかったとさえ、思われるくらいである。(続く)

2018年5月 3日 (木)

『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』を読む

幸せなことに、自分ではおよそ目にしないような、良書を、紹介してくれる友人が三人もいるのだけれど、同窓の、英文学を教えていた彼女がぜひ読んでと言ってそのタイトルを教えてくれて、アマゾンから取り寄せたものの、中途で挫折しかけ、ようやく完読したのが、この『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』箒木蓬生著である。

このタイトルの反語、ポジティブ・ケイパビリティは問題解決の能力、すなわち受験戦争の現代社会で一番尊ばれているものである。けれども、著者は言う、素養や教養、あるいはたしなみは、問題に対して早急に解答をだすことではない、むしろ逆で、解決できない問題があってもじっくり耐えて熟慮するのが教養である、と。

古くはイギリスの詩人キーツの私信の中に、この言葉の記述があり、キーツは「不確実さや不思議さ、懐疑の中にいられる」能力の保持者としてシェクスピアの名をあげていると伝えられる。

英文科の授業でその作品を暗唱するのに苦労したキーツがこれほど人生を深読みするひとだったかを、初めて知って驚いた。アルコール依存症の母から生まれた彼は七か月の未熟児で、胎児性アルコール症候群だったという。家族の望みで医者の道を達成しかけたものの、詩作への情熱は消えず、詩人として名を成した彼は、わずか二十五年の生涯だったが、感じないことを感じ得る詩作にネガティブ・ケイパビリティの達成感を味わったのだった。

今また、キーツの原文を読み解くならば、学生時代とは違った深い感慨を得られるのではないか、この本との、出会いを感謝せずにはいられなかった。(続く)

2018年4月30日 (月)

自作スワッグ

阿佐ヶ谷の生花店でつくってもらった、ミモザのスワッグが、勢いを失くしていたので、気になっていた。
上毛高原の川場マーケットにとても安価なドライフラワーが沢山あって、それを三種、500円くらいで買えたので、自分で作りなおしてみた。

中原街道沿いのケーキ店が引っ越したあとに、一見しゃれた生花店がオープンしたのだけれど、苗など、すべて一鉢300円以上、およそ華やかさに欠けるスワッグもいくつか飾ってあるのだが、どれも3000円、わたしは思わず問いかけてしまった。
阿佐ヶ谷にある花屋さんは、とてもセンスの良い苗やスワッグをおいているけど、お宅よりはずっと安いのよ。お宅はどれもずいぶん高価だけど、理由があるの? と。
答えは、このあたりはこのぐらいの値段じゃないか、と思って…だった。

こういう店で買うつもりはなくなった。

安い材料を使ったわりには、ましな、仕上がりだと、自負している。001_2


2018年4月27日 (金)

電話か、メールか、はたまた手紙か・・・?

学生時代に親しかった友人のご主人の訃報を知った。
しばらく交際がとぎれているけれど、彼女が結婚を決めたいきさつも、華やかな結婚式の記憶も失せていない。
お悔やみの気持ちをあらわすのは、本来なら手紙だけれど、哀しみから癒えていない彼女に返事を書かなくてはならないという気持ちを負わせることになる。メールアドレスは知らないし、つきとめたとしても、この場合にふさわしくない手軽さ、という気がした。
こういうときはその気持ちを正直に述べて、電話にしようと決意し、かけたら、すぐに彼女が出てきて、電話が一番ありがたい、と言ってくれた。「亡くなってみてつくづく思うのだけれど、わたしには過ぎた夫だったの…」で始まる、そのしみじみとした思いが伝わってきて、いまは哀しみをかかえながらも、しっかりと生きていく気持ちが声音からしのばれて、安堵した。

同年齢の友人の通信事情を知るのはあまり苦労がないが、年下の友人はそれぞれで、固定電話にすぐ出てくれるひとは少ない。すぐ出るのはゴキゲンななめなのでは?と思うような応答のご主人だったりして、戸惑ったりする。携帯にもすぐ出てもらえないときが多いので、もっぱら携帯のSMS機能で短いメッセージを入れることをよく試みる。

この年代のひとたちとは、長い電話は避けて、込み入った話はパソコンで長めのメールをすることにしている。
ところがパソコンを使わないひととは、ややこしくなる。SMS だけでは気持ちが十分に伝わらない、互いに好意は持っているのだけれど、すれちがいが多くて、その修正に手間がかかることも多い。

娘とは相変わらずツーカーとはいかない。このごろ携帯に電話すると、すぐ出てくれることはまずないのだけれど、それでもなにか異常が起きたのかと不安になるらしく、なにかあったの?と電話してくることはよくある。そのまえにメールしておいたのに、それは読まずに電話が先だったりもする。
こちらの用事が緊急でないと知ると、いとも無愛想にすぐ、切ってしまう。ともかくいつかけても忙しそう、わたしも彼女の年齢のときは実母にああいうふうに接していたのかもしれないのだけれど…

2018年4月23日 (月)

『セミラーミデ」はスゴイ!

尊敬する一人旅名人のkikukoさんは、オペラ評論家も真っ青の数百回に近いオペラ体験の持ち主でもある。
あるとき、謹んで、どのオペラが一番お好みですか?とたずねたとき、彼女は迷うことなくロッシーニの『セミラーミデ』と答えた。
それを知ってから、この十年近く、ひたすら、このオペラの上演を待ったが、主要舞台でそれが実現することはなかった。
今回、メトロポリタンオペラライブビューイングに『セミラーミデ』があるのを知り、ああ、ようやく観られる、絶対行かなければ、と、誓っていたのに、なんと、旅行から戻った翌日が最終上映日であるのに気づいたのが、夜の十時過ぎ、あわててネットから二子玉川のシネコンの予約をとった。

開始が朝十時、二子までバスで15分とはいえ、旅行のあと、ちょっとシンドイ、しかも上映時間なんと3時間48分という超大作である。居眠りしちゃうかも、と思った。
だが、そうはならなかった、初めから終わりまで、わたしは目を皿のようにして見入ったのである。それほどに、このオペラは素晴らしかった。

まず序曲に圧倒される。オペラの上演よりずっと演奏される頻度が著しいのもうなずけるぐらい、リズムの表情豊かなメロディーの中に高揚感、焦燥感、躍動感が見事に表現されていて、すでに物語の起伏を予感させてくれる。

今回のインタビューアー、クリストファー・モルトマンがいみじくも、冒頭に紹介した言葉で納得がいった。このオペラはキャスティングが難しいのでなかなか上演されないのである、と。

タイトルロールのセミラーミデは、古代バビロニアの女王、彼女をめぐるドロドロの復讐劇なのだが、主人公はこのベルカントソプラノのセミラーミデとは言い難いほどに、俄然精彩を放つのは、メゾソプラノの男役、アルサーチェである。わたしはこのオペラで初めてメゾのベルカントを聴いたが、音の上下の激しさをとらえるのも、乱れがなく、聴きやすく、引き込まれた。エリザベス・ドゥショングは、憂いを含んだ美貌で、主役の影をうすくするほどの好演だったと思う。Photo


ペーザロのロッシーニ音楽祭では、グルヴェローバやバルチェローナ、フローレス、と言った主役級が顔を連ねる豪華配役だったと想像できるが、今回のアメリカ勢が多数を占める配役も、聴き劣りのない、仕上がりだったと思う。

とりわけ複雑な筋書きがすっきり頭に入る演出で、アリアも二重唱や三重唱が忘れがたく耳に残った。

ぜひアンコール上映を望みたい。


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